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読切小説/男と女と雨の話_20210617

天使を見た。私は世界の一線を越えたらしい。

空が重く翳って夕立を待っている時、落とした視線の先、蓮の花の中に美しいものがいた。よく見ると脇の湖面にも、その先の新緑の葉の裏にも、美しい天使が宿っていた。新しい世界では、美しいものはより美しくなり、醜悪は力なく後退して私に近づくことが出来ないようだ。

隣では女が歩いていた。私にぴたりと体を寄せて、まるで子供のように私の手を握りしめて、女も蓮の花を見ていた。女の手は温かかった。私がわずかに手に力を込めると、自然に女も力を返した。しかし女は自分の動力には気づいておらず反射のように私の手を握り返していた。この女は父親を知らないのだが、それでもこうやって幾つになっても父に手を引かれる娘を取り戻せるのは、それもやはり女が父親を知らないからだろうかと思った。

向こうからやって来た年嵩の女が、醜悪に気がついたような顔をして私たちを避けていった。また一つの醜悪が、私の前から後退していった。隣の女は気付きもしない様子で蓮の花を見続けていた。

「天使がいる」

そう女が言った時、私は驚かずにはいられなかった。ただ私に手を引かれていると思っていた女もまた、世界の一線を越えていた。女は自分の意思と足で世界をまたぎ、私の手を取ったのだ。私は感動のため震えた。

最後、私は私の全てを女に渡してしまおうと思っていた。全て忘れて、新しい生命として生きるがよいと。しかし私は思い直した。この女の手を放すまい、何処までも、私たちは一緒だ。

「そうだね」

私がそう言うと、女は嬉しそうな顔をしていた。

雨の最初の一滴が、私の頬に落ちた。次の一滴は女の頬に落ちた。あとは無造作に世界に落ちた。美しさの上にも、醜悪の上にも、雨は降り落ちた。そうなってはもう、私の一滴も、女の一滴も、見分けがつかず、価値の無いものとなってしまった。女は雨の存在にも気がついていなかった。

私はきた道を引き返した。女の手を強く引いて走った。着ていたトレンチコートを脱いで自分と女に被せながら、ひたすらに走った。女は不思議そうにしてぐずぐすしていたので抱きかかえて囁いた。

「これからは生きるも死ぬもふたり一緒だ。怖がるな。私が走るなら、君も走るんだ。いいね。」

やがて女は片手でコートの端を持ち、もう片手を私に回して走った。私たちは雨の中を力強く走っていた。世界は何処までも美しく、醜悪は消え去っていた。




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