読切小説/僕と孤高の美女とあの金閣寺の話_20210609
雷が僕を撃ち抜き、僕は孤高の存在として生きようと決心した。
僕に電光石火の一撃を与えた彼女もまた孤高のひとだった。僕は彼女を「孤高の美女」と呼んでいた。彼女とは朝、トラムの中で会う。彼女はいつも瞳を一心に文庫本へと落としている。トラムの中で紙の本を開いているのは彼女しかおらず、その姿は数の力というものによって結果的に、浮き立つ。しかし当の本人は周りの景色など気にもとめない様子で、自らの孤独な道を一心に歩んでいる。僕はこの清き姿勢こそ、彼女の美しさの本質であると思う。それゆえ「孤高の美女」と呼ぶ。
一度だけ、彼女の読んでいる本の中身を見たことがある。それは事故のようなもので、決して、決して覗いた訳ではない。その日はトラムが混んでいた、僕には身体の自由など全くなく、人の波が偶然にも僕の体を座っている彼女の前に押しやった。何度思い出してもそれは疑う余地のない偶然で、もうちょっと左に行きたいな、などという意識は全くなかった。そのような偶然が生まれた由縁、またはご縁、またはデスティニーは、心臓を模した矢をもつ神のみぞ知るところだと思っている。そして神は大地を震わせた。無力で善良な人間であるところの僕は、体を大きく揺らし目の前の彼女へと倒れそうになる。しかし、この苦難に彼女を巻き込む訳にはいかない。僕は持てる力の全てを動員して苦難と戦い、彼女を守り、ついに神の御業を跳ねのけた。ひと知れぬ戦いが終わったとき、僕は彼女の頭上30センチのところで頭を垂れていた。まるで慎み深い稲穂のように。そして僕の目の中に、三島由紀夫の「金閣寺」が映った。それは偶然にも僕の部屋の本棚に置かれた本だった。
三島由紀夫の「金閣寺」が著名な本であることは、もちろん僕も知っている。しかし著名な本だからといって皆が読んでいるとは限らない。地上波テレビで「金閣寺」についての弁論が行われたり、本屋で三島由紀夫特集が平積みされたり、夏休みの度に"今こそ読みたい名作"などという帯びを付けられていたりするが、それは地球上の本当にごく一部の極めて稀な選ばれし人類のみに受け入れられるものであって、大部分の人類は素通りしている。なぜそう言い切れるかというと、僕は三島由紀夫の「金閣寺」を手にして読んでいる人間を目撃したことがないからだ。もし皆が読んでいるというならば、僕は19年の人生で少なくとも何十人、いや何百人と、三島由紀夫の「金閣寺」を手にした人間を目撃していてもおかしくはないはずだ。一方で林檎のマークがついた機械を手にしている人間は、おそらく何千人と見たことがある、僕の言う「皆」とはそういうことだ。
寿司詰めのトラムの中で、極めて稀な選ばれし人類であるところの二人が、なんとその時向かい合っていた。僕は2度めのデスティニーに震え、思わず眼下の同志にも僕という同志に巡り合っていることを伝えたい、気づいてほしい、僕はここにいるよ、という念を送りそうになった。しかしここで僕の中の慎みが、僕に待ったと手をかけ囁いた・・・(彼女は今、孤高の道を歩んでいるのだ、つまり巡礼者である。彼女から求められない限りこちらから手を差し伸べるべきではない。しかしそう遠くない未来、彼女は必ず僕を見つけ、親愛なる我が同志よ、と言って彼女自ら僕の手をとるだろう。)・・・僕は僕に、全くその通りだ、と言って己の念力を封じた。
余談であるが、彼女は褐色の肌をして、艶やかな黒髪を後方へ撫で付け、凛々しい丘のような眉の下に、流れる大河ような瞳をもつ。鼻梁は細く高く長過ぎず短過ぎず、唇は三日月のようでありながらもふっくらと紅い。首、手首、足首、腰のくびれ、首という首がスラりとして、衣服の上からでも健康的に鍛えられた筋骨の気配を感じる。まるでエジプト神話のような、そういう容姿を彼女はしている。視覚的に美しいことは間違いなく、そのあまりの美しさに降りるべき駅を見送って見惚れる人間もいる。僕だって駅を見送ったことがないと言えば嘘になる。しかし根本的な部分で僕は違う。僕にとって彼女の容姿は、彼女の本質的な美しさの余談に過ぎない、あくまでも、断固として。
僕はその日家路につくと、本棚の奥から埃をかぶった「金閣寺」を取り出しカバンの中に投げ込んだ。そして翌日からトラムの中で「金閣寺」のページをめくった。僕は先輩同志として、彼女の巡礼の進捗を陰から眺め、彼女がいつでも僕を見つけて助けを乞えるように、「金閣寺」と書かれた表紙をわざわざ高々と掲げてページをめくった。
僕という守護者に見守られながら、やがて彼女のページはいよいよフィナーレを迎えようとしていた。(彼女も明日には巡礼の旅を終えるであろう、その時にはきっと天使たちが降りてきて僕ら二人を囲んでラッパを吹き鳴らすに違いない)・・・そんなことを考えながら僕が帰りのトラムに乗ると、なんということか孤高の美女がひとり「金閣寺」を読んでいた。朝以外に彼女に会うのは初めてだった。トラムには運転手を除くと、僕と孤高の美女の二人きりだった。夕方の光が、幻想的に彼女と僕を照らしていた。デスティニーという言葉が心臓を突き破りそうになるのを抑え、僕はゆっくりと彼女の向かいに座り、カバンから「金閣寺」を取り出した。
もう二人の間を隔てるものは何もない、僕は僕の「金閣寺」を開いて彼女の「金閣寺」を見つめた。最後のページがめくられると、彼女は彼女の「金閣寺」を閉じた。僕も僕の「金閣寺」を閉じ、ラッパの音に耳を澄ませた。
遠くでプシューっとドアが開く音がして、ひとりの男がトラムに乗り込んだ。天使にしてはエジプトの戦士のようないささか精悍すぎる容姿をもつ男は、真っ直ぐに彼女の横に座った。
ここからは、あまり記憶がない。たしか、孤高の美女は読み終えたばかりの「金閣寺」をエジプト戦士に渡し、渡した手をそのままエジプト戦士の手に絡ませた。その後トラムが駅に停まり、停車の振動で僕の手から「金閣寺」が滑り落ちた。僕の「金閣寺」はバサりと音をたてて、床に横たわった。孤高の美女は立ち上がり、スラりと高い視点から僕の「金閣寺」見た、そして僕を見た。彼女の瞳が、はじめて僕の瞳を覗いた。その瞬間、雷が僕を撃ち抜いた。これまで見てきた彼女の姿が、走馬灯のように目の前を通り抜けた。
雷に撃たれ動けない僕を残して、彼女はエジプト戦士と手を絡ませたままトラムを降りていった。彼女の「金閣寺」がエジプト戦士の尻ポケットに収まっていた。沈みゆく太陽が最後の決心とでもいうように世界を赤く染めていた。その光はトラムの中へも注ぎ込み、床の上に横たわる「金閣寺」を切り裂くように照らした。まるで「金閣寺」が燃えているようだった。
僕は駆け出した。どこまでも休まずに駆けながら、やがて決心した。生きよう、「孤高の美女」も「金閣寺」も忘れ、孤高の存在として生きようと。
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