読切小説/偽物_20211015
「図書館なんて、人生への不安に酔いしれている奴が行くところさ」
そう言ったのは彼だけれど、それは彼の言葉ではない。
「田中くんでしょ」
「そう。彼に言わせると僕らは人生の不安に酔いしれているらしい」
そう言った時、彼は笑っていたし、私も笑っていた。誤解されやすい田中くんの心配を、「田中くんらしい」なんて言葉で受け止める傲慢な強さを、あの頃の私はもっていた。
彼を失ってからの私は、彼と出会う前よりもずっと弱くなった。彼と出会うまでの私は、いつだって貝のように殻に閉じこもって、自分を守っていた。自分の弱さを知っていたから、私は何も求めないことで、傷つけられることを防いでいた。理解されようなんて思わなかったし、相手の誤解に苛立つこともなかった。そうやって私は自分の弱さと向き合いながら、案外上手に生きていたのだ。ひとりぼっちで。
風間真一。彼に出会って、私は貝の生き方を捨ててしまった。
彼は当然のように自分の中に私を入れ、当然のように私の中に入った。それは踏み荒らすような、私がずっと恐れていた無遠慮な侵入ではなくて、とても静かに自然におこなわれた。だから私は彼を特別だと思わざるをえなかった。私たちは同じで、言葉など必要なくて、あなたは私で、私はあなただと、そうとしか思えなかった。
彼と出会って、私は私の欲望を知ってしまった。
図書館と美術館はよく似ていると思う。静かで、内向的で、ここに居るみんなが、人生への不安に酔いしれているように見える。
私は昔から美術館が好きだったけれど、真一はそうではなかった。私が誘うと、真一は必ず別の行き先を提案した。でも私はそれでよかった。私らしさなんてものがなんなのかは分からないけれど、私は私でいるよりも、真一の隣にいる私の方が好きだった。
だから、美術館には真一との思い出はない。でも何故かここに来ると、私は真一の気配を探してしまう。居ないと分かっているから。感じたすべてを偽物だと言い切れるから。傷つかないから。私は思い出のつまった図書館ではなく、何もない美術館で真一の面影を探すのだ。
私がひとりでゆっくりと絵を見ていると、同じようにひとりでいる男性がちらりとこちらに視線を向けているのが分かった。私は気が付かないふりをして、ゆっくり絵を眺め続ける。そして自然な順路で男性のうしろに立つと、左手の薬指に目を向ける。
真一は強い人だったのに、驚くほどの弱さももっていた。私たちは似たもの同士だったのに、持っている強弱は対象的で裏表のようだった。
私は孤独に強かった。長年の生き方が染み付いたせいだろうが、私は他人から理解されないことになんの苦もなかったのだ、たとえ相手が真一であろうとも。でも真一は違った。
真一は私が彼を孤独にすることを恐れていた。もし孤独を感じれば、真一はひどく悲しみ傷ついた。彼に傷ついた顔を向けられると、私は世界から否定された気持ちになった。それは私にとって、何よりも恐ろしいことだった。私は否定に弱かった。もし真一から否定されれば、私は生きていけないも同然だった。
真一は驚くほどの強さと弱さで、私と一緒に生きようとしていた。私はそれが嬉しくてたまらなかった。私は真一を愛していた。
男性の左手の薬指には指輪がはめられていた。
私たちは追い抜いたり追い抜かれたり、離れたり近づいたりをしながらゆっくりと出口に向かった。
美術館に併設されているカフェで、私たちはコーヒーを飲んだ。ふたりとも砂糖もミルクも入れずに、苦くて熱い作り置きの飲みものを口へ運んでいた。
「美術館へはよくいらっしゃるんですか」
男性は丁寧で、やさしい話し方をする人だった。私は「ええ」と言い、わざと「美術館は好きだけれど美術はさっぱり詳しくない」と付け加えた。すると男性は、「僕もです」とだけ言って笑った。知識をひけらかすことも、大袈裟に同意すこともしない所が、真一に似ていた。
私に声をかける男性が、真一に似ていることが多いのはなぜだろう。
私たちは形式的にビストロに入り、形式的にワインを飲んだ。そして美術館ではじめたことを、ホテルの部屋で終わらせた。
男性はベッドの上でも丁寧で、やさしかった。服を脱ぎながら指輪を取ろうとしたので、私は動きを遮って指輪のついた左手を私の中へまねいた。
男性との交わりは真一との交わりとは全くちがった。その違いと、左手の指輪が、私を純粋な興奮へと誘ってくれた。男性の腕の中で、私の体は釣れたての魚のようにはねていた。体以外のなにも求めあわない、純粋で、楽しい関係。そこには理解も、孤独も、否定もない。
真一を失ってから、私は図書館に行っていない。
貝に戻ることのできない私は、真一のいない場所で偽物を探している。人生への不安に酔いしれているふりをしながら。
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