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読切小説/画家と肌の話_20210623

男は息を殺して壁の向こうの物音に耳を傾けていた。

男の耳は、女の生白い足が海底を這う深海魚のように床をぬらりと撫でる音を聞いていた。細く柔らかい指が、洗い終わったばかりの濡れた洗濯物を摘み上げている。そろそろ窓が開くころだろうと見当をつけていると、カラカラと窓が開く音がした。女は柔らかそうな二の腕をあげて洗濯物を竿に掛けている。上を向いた拍子に、小さく形の良い顎の下から、日の光を知らぬような首筋が現れた。

男は音から伝わってくる女の肌を脳裏に浮かべながら、絵筆を動かした。男はこの一室を仕事場として借りていた。どうしても遅くなった時に寝泊まりすることはあったが、基本的には朝から暗くなるまでの間しか使っておらず、仕事道具と小さな冷蔵庫とベッドを兼ねたソファーしか置いていない部屋だった。もちろん洗面所は使っていたが、シャワーも洗濯も料理もしないので生活音は無いに等しい。一方、女の部屋は角に面していたので、隣あうのは男の部屋のみである。男は、男が生活音を出さないので、女は自分の生活音がこうも有りありと男に伝わっていることに気がついていないことを知っていた。

男が初めて女を見たのは、エレベーターの中だった。先に男が乗っており、女が後から入ってきた。男はいつものように目線を下に落としたままであったが、目線の先に女の生白い足が映り込んだ。男は感動のあまり息を止めた。女の足は、黒いスカートのスリットの間からぬらりと生え、先は硬そうなヒールの中に行儀良く収まっていた。男は女に気づかれぬよう目線をあげ、恐るおそる腕や首筋や耳を見たが、見える女の肌はどれも男の心を震わせた。

男は瞬時に女の裸体を想像し、その肌を絵に収めたい衝動に駆られた。その衝動は、男にとっては肉欲以上の快楽であり、目の前に無防備に立つ女の肌は、濡れた白玉石のように艶々とした汚れを知らない純潔な白地でありながら、既に男の心と濃密に絡み合っていた。

男はその後、さりげなさを気取って何度か女と鉢合わせする機会をつくり、些細な挨拶を交わすようになった。そして、心をひらいた女が見せた一瞬の誘いを、男は見逃さずに手に入れた。

初めて女を部屋にあげた時、女はそのガランとしように驚いたが、男がここは仕事部屋で自分は絵描きだというと、男の予想どおり嬉々としはじめた。男は冷蔵庫に入れてあったワインを取り出して、この日のために買ってあったローテーブルの上に置いた。女は物珍しそうに部屋を眺め、あまりに殺風景な様子を見て、自分の部屋の音が響いてはいないかと心配そうに尋ねた。男は、いつも音楽を掛けているので聞こえた事はないと言って、スピーカーのスイッチを入れた。このスピーカーも、男がこの日のために用意したものだった。

栓を開けようとワインに手を掛けた時、男は思い出したように、コップがない、と呟いた。いつもひとりで飲んでいるのでコップは使わないのだと、男は言った。女は、自分の部屋にあるものを持ってくると言い、立ち上がった。男は女が部屋のドアを出ていった音を確認すると、スピーカーの音量を下げて、女の部屋の物音に耳を済ませた。女の足が床を滑り、手が棚を開けるのが分かった。そして女がまた男の部屋のドアを開ける時、ゆっくりと音量を元に戻した。

その夜、女は男に注がれるがままにワインを口に運び、やがて眠りだした。男は女の深い寝息を確認すると、部屋のあかりを消し、カーテンをあけた。窓から注ぐ月明かりの下で、女の肌は男の想像通り、青く光りだした。

男は女を起こさぬように、そっと女のスカートを捲りあげ、あの生っ白い二本の足を露わにした。そしてシャツのボタンを外すと、首から下の、特に柔らかな部分を薄い光の元にさらした。女の腕はわずかに上下する腹の上で、絡み合う白蛇のようにだらりと組まれていた。そうして男は朝まで、女の肌を眺め続けた。

この夜に見た女の肌を元に、男は何枚も絵をかいた。画商はこれまでとは異なる男の絵を称賛し、また鬼気迫る男の様子に満足して、これが男の代表作になると言ってもっと描くように背中を押した。男にとっては知ったことではなかった。描けと言われなくても、筆を持つ手を止められないのだ、もはや男が絵を書いているのか、絵が男に書かせているのか、分からぬ時もあった。男は聞こえてくる音に耳を澄ませては、女の無防備な肌を想像し、また新たな絵を生み出した。

男は女の肌に取り憑かれていた。しかし女の内面に対しては微塵も関心を持っていなかった。女の話す事には共感するものがなく、いつも内心では、女が黙っていてくれればいいのにと思いながらも、ワインを飲ませるためにつまらないおしゃべりに付き合うのだった。

男が求めたのは、壁を挟んで聞こえる女の気配や、眠りこけた女の体、つまり自意識のない女であった。男は頭の中で、自意識のない女の深海魚のような足に踏みつけられ、転じて女を組みしだいては、全身の肌を舐め回したりした。そしてこの光景を元に、また新しい絵を描くのであった。

一方で、現実の女は意識の中で男を求めており、なかなか求めに応じようとしない男に苛立ちを感じていた。

ある夜、男は忘れ物をして夜の部屋に戻った。すると、女の部屋から聞きなれない物音がした。どうやら女は男を連れ込んでいるようだった。男は壁に頬を寄せて、快楽にはねる女の肌の音に、朝まで耳を澄ましていた。

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