読切小説/男と刃物の話_20210619
−ああ、本当に殺してしまったのか。
夢の中では何度も繰り返したことだったが、刃先に伝わった厚い肉の感覚は、間違いなく現実だ。−
男は同僚を刺した。男が恐れ屈してきた同僚は刃物が臓器を突き破ると、いとも簡単に冷たくなった。男はあまりのあっけなさに、しばらく呆然とした。
同僚は長年にわたり男を虐げていた。正しくは男だけでなく、他の多くの人間を人とも思わない風に虐げ痛めつけてきた。同僚は、極悪非道な人間であったが、腕っぷしが強かった。一方、男は優しく善良な人間であったが、腕っぷしが弱かった。
同僚の悪は明らかであった、しかし周到でもあった。その悪事は明るみに出ず、陰で陰湿に実行された。痛みを受けたものの中には、やがて恐怖のあまり服従する者もいれば、命を絶とうとする者もいた。皆がどうにかしようとして、どうにもできなかった。
痛みに耐えながら、男は日々、開放の糸口を探した。力では敵わぬのだから、公に罰せられる機会を待つしかない、そう思いながら日々を耐えた。はじめの何年かは、実際に耐えることができた。しかし数年が過ぎると、やがて男の中に一つの考えが浮かぶようになった。
−終わりなど来ないのではないか?−
遠くの方から、自分の人生は自分で切り開く、という自己を啓発する言葉が聞こえてきた。
やがて男は夢を見るようになった。夢の中で男は刃物をもち、同僚を刺すのであった。初めて夢を見た時、同僚は刺されても力を落とさず、怒り狂い男に向かってきた。男は恐怖の中で目を覚まし、全身から冷たい汗を流した。次に夢を見た時、同僚はまた刺されても力を落とさず怒り狂ったが、男は必死に抵抗し同僚を何度も刺していた。返り血を浴びているようなぼんやりとした実感と疲労の中で男は目を覚ました。そんな夢を何度も見た。
男は恐怖していた。それは、同僚を恐れるのとは異なる恐怖であり、自分が人間を傷つけてしまうのではという恐怖であった。男は優しく善良な人間であったので、他人が傷つくならば自分が傷つく方が良いという思考を持っていた。男は初めて自分の中に芽生えた他人を傷つけたいという思いに苦悩した。苦悩のあまり、いっそ刃物を自分に向けるべきなのではとも思ったが、実行しきれないまま、時間が過ぎて行った。苦悩の中で男は次第にやつれ、目の下は落ち窪み、瞳だけが暗く光るようになった。
その時、男にはそれが夢なのか現実なのか分からなかった。同僚がいつものように、男を虐げ始めたときには間違いなく現実であったことは覚えている。しかし少し経つと男は、ああこれはいつも夢で見る光景だ、と思い、刃物を手にとって同僚を刺した。ひと刺しし、何か言いながらゆらゆらとよろけ動かなくなった同僚を見て、男は初めて何かおかしいと思った。そういえば、いつもと刃物の感覚が異なった気がする。そして男は、自分が本当に同僚を刺し殺したことを知った。
−ああ、本当に殺してしまったのか。−
この時、男は恐怖のかけらも感じなかった。あんなにも恐れていたこと成してしまったのにも関わらず、現実には何もなかった。男は気がついた、自分は今まで、自分で作り出した虚構に恐れ慄いていたのだと。
男は生まれ変わった気持ちがした。このまま、どこへでも行けそうな気がした。男はだらしなく横たわる同僚の時計を外し、財布から現金を抜いた。そして、建物を出ると闇の中に消えていった。その後二度と、男を見た者はいなかった。
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