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何もしないで達成する(2):『無為の技法』

前回から「何もしないで達成する」ということを考えている。まず「何もしない」ということを明らかにしていこう。

まず「何もしない」に対して、抵抗がめちゃくちゃある

「何もしない」といったら、それに関わることを一切しないという極端な思考に走るのと同様に、なぜか私の中に「何もしない」ことへの抵抗がどんどんと湧いてくる。読んだあなたにも共感してもらえるものもあるかもしれない。

・努力をすれば達成できる…という落とし穴

小学生の頃にこう思った。人から一目置かれるのは、3つのポイントがある。勉強ができるか、運動神経がいいか、容姿がいいか(かわいい、かっこいいなど)。そのうち、勉強と運動については、努力でなんとかなるものだと思った。もっと成長すれば、容姿についても、例えば自分に合ったメイクの仕方を学ぶなど努力のしようがあるし、それで変化が起きるのも体験した。私の成長プロセスの中での小さな成功体験としては、勉強は繰り返せばできるようになっていくものだったし、運動も最初からできなくても練習をすればできるようになったりするものだった。

実はここに落とし穴がある。この成功体験こそが足を引っ張る幻想なのだ。

つまり、このプロセスで私は、現時点に「できない」という状態があって、努力を重ねて、練習を繰り返して、できるようになるプロセスを経るものなんだ、という思い込みをつくってしまったということだ。だからできるようになるためには、努力や練習、ときに苦労をともにするのが当たり前なんだ、という思い込みが生まれた。私たちは、労力を注げば注ぐほど、達成や成功の確率は高まるという思い込みを持っている。これが「何もしないで達成する」の足を引っ張る。

・行動しなければならない…という強迫観念に近いもの

奇跡のリンゴ』という実話をもとにした映画がある。(映画のリンクはタイトルをクリックしてほしい。本を以下に紹介しておく)

リンゴ農家の木村秋則は、妻・美栄子の身体を心配していた。美栄子は年に十数回も散布する農薬の影響で皮膚がかぶれ、数日寝込むこともあったのだ。そんな妻を想い、秋則は無農薬によるリンゴ栽培を決意する。しかし、それは「神の領域」といわれるほど「絶対不可能」な栽培方法。数え切れない失敗を重ね、周囲の反対にあい、妻や3人の娘たちも十分な食事にありつけない極貧の生活を強いられる日々。それでも諦めなかった秋則は、11年にわたる想像を絶する苦闘と絶望の果てに常識を覆すある「真実」を発見する。

映画『奇跡のリンゴ』AmazonPrime 商品紹介より抜粋

この映画の中で、木村さんはリンゴに対して行動することばかりを模索していた時期がある。農薬をかけなければリンゴが育たない、でも農薬が使えない…ならば何を変わりに散布すればいいのかと、手を加えることばかりを考えていた。すごく共感をする。現状を打開するためには何かをしなければならない、何か手を加えなければならない。行動しなければならない。その思い込みから木村さんはどう脱却するのか。この映画は「何もしない」のヒントがたくさん散りばめられている。

・「自分のチカラで」という執着

他人のチカラで押し上げてもらったとき「でもこれは私のチカラじゃないから…」という気持ちが湧いたりする。親の七光り、なんていう言葉があるけれど、そこには「あいつは自分のチカラで手に入れたんじゃない」という気持ちが含まれる。そこには強く「自分のチカラか否か」に執着する気持ちがある。他人に与えてもらうのではダメだ。行動をして自らの手で獲得しなければならない。

…と書いているとそれが馬鹿らしいことが分かるのだけれど。最近『実力も運のうち』という本が人気だけれど、ホント、そう。今の私があるのは、たまたま日本に生まれたということだったり、その中でも特に貧困家庭ということでもなく、教育にも理解のある親で、好き勝手させてもらえる環境が揃っているという運があったからこそ。自分のチカラでがんばって勉強したから…というのは幻想で、それらは決して自分で手に入れられたわけではなく勉強できる環境が与えられたという運があってこそなのだ。「自分のチカラ」とは一体なにか。

「しない」を選択すること

そんな模索をしている中で『「無為」の技法』という本に出会った。

まさに、一冊丸々ズバリのことが書いてある。そこで一番ピンときたのは「“しない”を選択する」ということだ。「しない」を選択するというのは、例えば以下のようなことについて「しない」を選ぶということだ。

  • 自分に合わないこと

  • 「やりたい」ではなくて「やるべき」「やらねば」と思っていること

  • 自分の都合ばかりの計画を立てること

  • 「やるべき」「やらねば」という考え方自体

  • なにかの先に(例えば行動の先に)得られるものがある、という考え方

しないというのは、不安や無気力、決断力のなさから生じる行動の欠如ではない。放棄や逃避という意味で人任せにすることも違うと思っている。しないというのは、物事をやりこなす方法を狭い視野で見ないための防御手段だ。押すことでもなければ引くことでもない。逆らわず、ゆだねて、ともに歩いてみる。そうすることで力みがとれ、自分がかかわっている状況に対して意識が開く。

『無為の技法』(23ページ)

その代わりに…

その代わりにやることは以下のようなことだ。

  • 意図よりも自然の流れに従う

  • 委ねる

  • 物事を起きるがままにする

  • タイミングを待つ・・・など

高度な数学的知識をもった古代ローマ人も、その知識で道を設計したのではなく、ロバに山間をのんびりと歩かせ、砂に残る足跡をヘンゼルとグレーテルのようにたどって進路をつくったといわれている。道を見つけるのは自然のほうだ----人の役割は、それに沿って歩いていくことだ。

『無為の技法』(24ページ)

この道をつくるお話は読んで一瞬で気に入った。数学的知識でできないわけではない。でも、机上で計算することで出来上がった道を実際につくったとして、すべてが計算し尽くされているわけではない。ふと山に登ると獣道はあるけれど、動物たちだって安全そうな通りやすい道を自然と見つけているからそこに出来上がるのだ。自分のチカラを超えて、あらゆるものの知恵を集結していることにシビれる。

今すぐ体験できること

とはいえ、いきなり委ねるだとか言われてもどう実践したらいいのか分からない。

NLP(神経言語プログラミング)のスキルの中に、新行動生成というものがある。簡単にアレンジしたステップを書くので、文章を読みながら、ぜひ実際に体を動かして試してみてほしい。

ワーク

  1. まず、立った状態で前屈をしてみる。そしてどこまで手が届くのかを覚えておいてほしい。(先に読み進める前に、ぜひ今の状態を確認してほしい)

  2. 次に頭の中でイメージしてみよう。あなたはタコだ。足が8本ある、海の生き物で…タコは骨がない。ぐにゃぐにゃと手足を動かす。背骨もない。小さな壺にもスルリと入ったりする。タコの動きを思い出す。

  3. そして、実際に身体を動かしてみる。タコの真似をしてみるのだ。手足をブラブラと、背骨をぐにゃぐにゃ、ゆらゆらと動かしてみる。ぐにゃぐにゃ、ぐにょぐにょ。タコってこんな動きだよね。

  4. そして、もう一度前屈をしてみる。どこまで手が届くのか?

多くの人が、最初に1)で前屈をしたときよりも、タコの真似をした後の4)のほうが前屈をしやすかったという結果になる。あなたはどうだろうか。

ひとつめのポイント

ちなみに私は身体がめちゃくちゃかたい。1)で前屈しても手が床にはつかない。だけれど、タコの真似をした後は手が床に近づいている。届きはしないけれど、届きそうなくらい。私自身はこの数秒で何かが変わったわけではない。身体のつくりが変わったわけでもない。特別な身体能力が授けられたわけでもない。ちょっとタコの真似をしただけで、なぜか身体の使い方が変わって、身体が数秒前よりも柔らかくなっている。私は特に努力もしていなければ、がんばってもいない。何度も言うけれど、タコの真似をしただけだ。

確かに練習を積み重ねることでも身体は柔らかくなる。でも、ここでは特に頑張ったわけでも、努力したわけでも、積み重ねたわけでもない。私としては、ふざけただけのような、できているタコをただただ真似しただけ、それだけで私に変化が起きた。

これが「何もせずに」=「がんばらずに、努力せずに」というポイントのひとつだ。現時点があって、努力や時間を重ねて、ようやくできる状態に変化する…ではなくて、いきなりできる状態へ入っていくことが可能だったりする。今持っている能力を発揮するだけでいい、ということなのかもしれない。

まぁ、前屈なんて簡単だからさ〜…という気持ちが湧いてくる。私の「何もせずに達成する」の道のりはまだまだ続く・・・(つづく)


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