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映画『鹿の國(鹿の国)』観たメモ

本日は東中野に行きました。
初詣その2として鎧神社に(その1はもちろん将門公の首塚で、明日以降に満を持して神田明神へ行きます)。
で、なぜそこをチョイスしたかというと、将門公大好きなのとは別に、東中野に用があったからでもあります。
『鹿の國』(公式でも「鹿の国」表記ですが映画内のタイトル表示は旧字だったので「國」で記載します)を観てきました。
良い映画だと感じましたし、思考もたくさん動きました、ので、観て頭に浮かんだ由無し事や、映画内では詳らかにされなかったことを調べたメモなどを、ネタバレを気にせずに書き連ねたいと思います。ネタバレを読みたくない方はご注意ください(というかこれ以上、読まないことをお勧めします)。

↓これ以降ネタバレありです↓

 

まずは映画の概要から。
諏訪大社の一年間に行われる神事を軸に、その神事において鹿がいかに大切な存在なのかを描きつつ、ミシャグジという存在について触れ、現在は失われているとある神事の再現を試みる――そんな内容を、諏訪大社を含めた諏訪地方の美しい景色や、諏訪大社や神事に関わる人達のリアルな表情を丁寧に映した作品でした。
新日本風土記の雰囲気も感じるなぁと思ったら、監督の弘理子さんは、新日本風土記も手掛けていらっしゃいました。ネパール留学の経験をもとにアジアや山にまつわるドキュメンタリーを特に数多く制作されていらっしゃるようです。
あと、こちらの映画について「パンフレット」ではなく「公式ガイドブック」と表記されているのも、映画の姿勢が垣間見えて素敵でした。参考資料の記載がないものについては映画、もしくはこの公式ガイドブック、または私の思考です。

さて、内容ですが、この映画を観て動いた思考は一つ処に収束しなかったため、様々な項目毎に箇条書きのように書かせていただきます。自分のためのメモなので。

・諏訪大社
諏訪湖を囲むように、上社前宮と本宮、下社春宮と秋宮の四社からなる神社。創建は古事記の国譲り神話にまでさかのぼる、国内で最も古い神社の一つとされる。
諏訪湖の南側に上社前宮・本宮、北側に下社春宮・秋宮が鎮座し、本宮、春宮、秋宮は本殿を持たず、自然そのものを御神体とする。
御祭神は建御名方神たけみなかたのかみ(本宮、春宮秋宮)、八坂刀売神やさかとめのかみ(前宮、春宮秋宮)、そして下社配祀は八重事代主神やえことしろぬしのかみ(春宮秋宮)。
(参考資料:https://suwataisha.or.jp/about/)
中でも前宮境内の下段一帯は、神殿ごうどの神原ごうばらと呼ばれ、生き神たる「大祝おおほうり」の中世の住居館跡だそうだ。

大祝おおほうり
十四世紀に著された「諏訪大明神画詞えことば」によると、諏訪の神は往古、神氏族の子息、有員ありかずという幼童に憑依し、「我ニ於テ躰ナシ、祝ヲ以テ躰トス」と告げたという。
生き神=大祝を中心に、神長官じんちょうがんらが祭祀をいつく。
ただ、諏訪大社の神事の数は多く(後述)、そのために大祝の代わりとして領内の有力な家系の子息から「神使おこう」が選ばれた。

神使おこう
元旦に、占いにより一年限りの神使が選ばれると、彼らは選ばれた郷において建てられた精進屋という仮屋に忌み籠り、御左口神を「付申つけもうす」(=憑け申す)作法が行われる。その後、神使は三十日間の精進潔斎を行い、日毎増えゆく水垢離を経て二月晦にようやく精進屋を出る。
真っ赤な衣装が印象的だが、二丈五尺にも及ぶ長い赤い布は蛇の子であることを示しているかも、とのこと。

御室みむろ
当時は、(陰暦)十二月になると神原の一角に二十四畳を超える広さを持つ竪穴式住居のような「御室」を造り、「ソソウ神」(諏訪大社の神官長家系である守矢氏古文書では「そゝう神」「そそう神」と表記)という蛇体の神と、神長官の司る「二十の御左口神」(ミシャグジ)が祀られた。大祝はこのとき一緒に籠り始める。
また、一年の神役をほぼ終えかけた神使、祭祀に関わった神官たちもがこの御室に籠る年末の神事もあり、現在は行われていないこの御室の神事こそが「鹿の國」で再現を試みた神事である。
神使は一年で還俗するが、大祝はそのまま籠り続け、御頭祭おんとうさい(後述)にてようやく前宮神原へと姿を表す。

・ソソウ神
諏訪湖の方より現れる女性的な精霊。蛇神という噂もある。神使は、ソソウ神と御左口神との子供という扱いっぽい。
(参考資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/ソソウ神)

・御左口神
御左口神、御社宮司を始め、様々な漢字が当てられる。その正体は不明だが、神霊・精霊的な存在とされている。
また、その呼び名も、ミシャグジ、ミシャグチ、ミサクジ、ミサグチ、サグジ、サグ等々あり、中には「ショゴ」と呼ばれるところもあるらしい。ショゴ。うん、胸がざわざわする響き。
映画内で、民間で実際に祀られているミシャグジ様の御神体を見せてくれたが、男根を想起させる石像に、とぐろを巻いた蛇文様が刻まれている。この蛇文様がソソウ神だとすると、ミシャグジ神は男性の象徴の側ということになりそう。
ただ、ミシャグジ神とはなんぞやとちょっと調べてみると、諸説が入り乱れていて、日本各地に散らばっているミシャグジ的な存在については、一緒くたにしては「乱暴な」感じっぽい。
ほうり」と Holy とが意味と響きが似ているけれど、ユダヤと日本のつながりを示す一要素などではなく、語源を追ってゆくと特に関係なさそうってのと同じ感じで。
個人的には、メガテンシリーズのミシャグジさまのイメージが強く脳内に刻まれていたが、御室にてソソウ神と御左口神との神事などを聞いていると、縄文人に知恵を授けたレプティリアン的宇宙人のようなところまで妄想が跳ぶ。

・穴巣始め
十二月二十二日に、ソソウ神と御左口神と大祝とが御室に籠ること。
二十三日から二十四日にかけて、作り物の小蛇と御左口神とが「萩組の座」(御室内に建てられた建物。神座)に導かれ、これが二十五日には小蛇が五丈五尺の大蛇に変わる。
このときに歓迎の舞として、映画内でも一部公開された二十番の舞が捧げられる。
ソソウ神を迎えるために鹿を射る舞や、田植えに関する舞、男女の秘め事に関する舞などもある。

御頭祭おんとうさい
諏訪大社の「御頭祭」では、七十五頭の鹿頭が奉納される。映画内のナレーションにおいて「諏訪大社にて年間行われる神事が七十五ある」と聞こえたのだが、ガイドブックには「年間七十余度」とあった。ということは、頭数と神事の数について関連性はないのかな。
ちなみに、全国の諏訪大社を含めると神事の数は二百を超えるようです。そりゃ大祝一人では回りませんね。
あと現在は、鹿頭については剥製と鹿肉が用いられているようです。
この鹿肉は、氏子である猟師が納めているシーンもありました。

・鹿
映画のタイトルにもなっている鹿と諏訪大社の関係について、この映画では「答え」については語られない。
あくまでも事実として、諏訪大社の神事に欠かせない鹿の存在を描きはするし、春に生え変わり急激に伸びる角が稲穂の成長と似ているとか、鹿の子に浮かぶ白い模様が米に見えるとかの匂わせはありつつも、「答え」は観た人それぞれに委ねたいという姿勢のようだ。
田植え後の稲を鹿が食べに来るという話もあるようなので、実利的な理由もあったのかもしれない。
そういえば去年、鹿が蛇を食らう動画がバズったようだが、その方面で調べてみると、鹿が蛇を常食しているわけではないっぽいので、ソソウ神を歓待するためにあえて鹿を……というわけではなさそうだ。
話が逸れました。
中世諏訪神社の一年間の神事を記した「年内神事次第旧記」には、冒頭部に「鹿なくてハ御神事ハすべからず」との記載があった(理由の記載まではなし)ようなので、深い理由がきっとあって、でもそれは諏訪大社の祀る神の成り立ちにも関わることだからこそ、語ってはいけない系の禁忌として扱われている可能性もありそう。
田舎の因習系ホラーとかで「知らねぇほうがええ」って言われるアレである。
ただ、真面目な話、鹿にはある種の呪術的な価値はあると感じるんですよね。蛇が再生の象徴なのは脱皮するからで、鹿の場合は生え替わる角が再生の象徴になるのかなと。
諏訪大社における神事に鹿や蛇が登場するのは、歴史の古い諏訪大社ならではの、ある意味、必然なのかなと思わなくはないです。

・鹿食免
仏教伝来以前から諏訪地域では鹿がよく食べられていたようで、神事でも鹿を食べることがあるため、諏訪大社には「鹿食免」という御札がある。これをいただけば、鹿を食べても大丈夫というもの。
(参考資料:https://suwataisha-jyuyo.raku-uru.jp/item-detail/675774)
これをもらってから鹿を食べたい気持ちにまんまとなりました。

・鹿射ち神事
また、「播磨風土記」における玉津日女命たまつひめのみことの話も引用された。
玉津日女命が讃容郡の国占めにおいて兄と争った際、鹿の腹を割き、その血に稲を蒔いたところ、一夜にして苗が生えたので、兄(=伊和大神イワノオオカミ大国主神おおくにぬしのかみに比定される)は「五月夜さよに殖ゑつるかも」と言って去ったので、玉津日女命は、賛用都日賣命さよつひめのみこととなり、その地は、五月夜さよの郡(→讃容郡)となった。
(参考資料:https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/bungakumap/k_sakuhin/ks345/
大国主神は、建御名方神(とその兄、八重事代主神)の父。
御頭祭で鹿を捧げる理由に、もしかしたらこの玉津日女命の話が関係しているかもしれないという印象は受けた。
実際、このときの鹿の血と稲の話がルーツとなる神事として、愛知県能登瀬は諏訪神社の「鹿射ち神事」が紹介される。
榊の木で雄と雌、二頭の「鹿」を作り、雌の胎内には産子さごと呼ばれる鹿の胎児の代わりに餅を詰める。雄と雌の「鹿」が結ばれるよう三々九度から取った「九」という本数の矢をまず雄「鹿」に、次に雌「鹿」へ射る。最後の一本が雌に刺さった瞬間に、周囲の人々が一斉に駆け寄って「鹿」の腹を割き、中の餅を奪うように取り出す、というもの。
餅は正月に年神様が宿る依代としても用いられるし、年神様は田の神でもあるし、お正月飾りに用いられるしめ縄のルーツには絡み合う蛇の交尾という説もあるし、蛇と餅と田というキーワードが重なるのは、完全に無関係というわけではないような気がする。
ちなみに、この産子さごは、ミシャグジ神の様々な呼称の中に同様のものもあり、関係性を疑い始めるとキリがないとも思いはする。

・蛙
元日に行われる神事の一つに「蛙狩かわずがり神事」というのがあり、本来ならば境内横の清めの川である御手洗川で捕まえた蛙を用いるのだが、映画スタッフが撮影に訪れた際には、動物愛護団体の抗議によりそれが叶わなかったと公式ガイドブックに記載があった。
これは酷いなと感じた。
蛙は蛇の大好物なので、ソソウ神と深く関わりが在ることのように感じる。
今回の動物愛護団体の行動は、言うなれば食物連鎖自体へ抗議している、そのくらいの滑稽さを覚えた。それとも目に見えない、正体のわからない神は彼らにとって存在しないのと一緒なのか? そんな彼らは正月もお盆もクリスマスも、無視して人生を過ごすのだろうか?
ヴィーガンの人たちの中には、他人の肉食をとやかく言う人も居て、そんな彼らの植物は命に含めない傲慢さには疑問を……おっと、また話がそれてしまった。
申し訳ないです。

この映画は、そんな人間の傲慢なイデオロギーなど一切感じることなく、神事への真摯な想いと、諏訪大社をとりまく環境の美しさとが、丁寧に綴られた素敵な映画です。
公式ガイドブックには、意外なあの人から寄せられた言葉があったり、映画の背景となる情報が盛り沢山でフルカラー87ページという豪華さで、それ自体が素敵な読み物としても楽しめます。
できることならば、この映画と、この公式ガイドブックとが、皆様の未来の経験の中に含まれますよう、祈っているくらいオススメでした。

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