神道とシャーマニズム
シャーマニズムに抵抗があったのは、神社がとても怖かったからだと思う。
私の育った東京はそんなに遊び場がなかったから、近所の神社の境内でバドミントンしたり、ドッジボールしたり、タカオニしたり、いつも遊ばせてもらったけれど、いつも何かに見られているような、怖い感じがした。
だから、スウェーデンで、シャーマニズムを初めて知った時、ものすごく抵抗感があった。
日本人と神社との関係性の感覚から、神様(スピリット)を素人の私が安易に扱うのは良くないとういう思いが強かったからだと思う。スピリットとの交信は、限られた・選ばれた人だけがすべきことと植え付けられた感覚だったのかと思う。
日本は元々、アニミズム(自然や物にスピリットが宿っているとする信念体系)の文化をもった国。日本の自然に触れるだけで、それは容易く理解できる。
日本の自然(山、川、湖、海、木、岩など)には、本当に神(崇高なスピリット)が宿る。そういう場所へ行っても、全く何も感じられないという人は、少し深呼吸をして、心を安定させる必要がある。日本のスピリットは、かなり鈍感な人でも感じられるくらい、かなり強いスピリットが宿っている場所が多いから。
神道の文化は、このアニミズムがベース。ただ、アニミズムがもともともっている「自然の土臭さ、生命の生臭さ」を感じらないくらい人間の手が入り過ぎた。これは、神道が長い歴史・文化を通して、洗練・儀式化され、宗教色を帯び、神と人間の間に「神に使える人々」を設定してしまったからなのではないか。
神道のみならず、多くの信仰では、スピリットとの交流は主に「神に使える人々」や「介入者」によって行われ、スピリットからのメッセージは、その人々から聞く。
または、スピリットと直接話したい場合も、スピリットを生きている人間の身体に下ろすこと(ミディアムシップ/mediumship)が主で、その介入者(ミディアム)の身体を通して話をする。その際、この器となる人の人間性(ピュア度)により、降りてくるスピリットがかなり違ってくる。
不思議なもので、他人の口を通して聞くと、自分が直接スピリットからメッセージを受け取るよりも、なぜか信憑性があり、受け入れやすいのも事実だから、この手法が一般的なのかもしれない。
「私ごときがすることではない」という私が思ったのは、きっと、こんな日本の文化や信仰の常識があったからだ。また、シャーマニズムは、アニミズム文化の一部。だから、日本の神道をシャーマニズムとは全く別物とするのは無理なのかも。
では、何が違うのか?私の実体験から知っている大きな違いは、次の2点:
私とスピリットが直接対話する。
スピリットが私に降りるのではなく、私がスピリットの国へ旅をする。
私たち自身が、日常生活での時間・スペースをさき、スピリットに近づく練習・努力し、スピリットと対話し、スピリットの助言を実行し、見えない世界を常に意識し、生きていく生き方を実践すること、それが、私の知っているシャーマニズムだ。