2022.8.22(月) 正岡子規『歌よみに与ふる書』を読む④ ー理屈を離れるー
歌(短歌)について批評をここまで並べてきた子規ですが、「四たび歌よみに与ふる書」では「空論ばかりにては傍人に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉御尤と存候」と持論だけではなくその根拠となる作品を示していきます。
読者に過激なことを言いながらも、読者からの反論を代弁し、なだめるように答えを示していく書き振りは子規ひとりでディベートをやっているかのようです。
もちろん実例を示しても反論が出てくるのは当然なのでここで示されていないような例があれば「御思ひあたりの歌ども御知らせ被下たく候」と先に牽制を入れることも忘れません。
子規の文章は読者との対話のようにして進んでいきます。
さて、実際に子規はどんな歌をどのように評したのでしょうか。
もののふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも
ここでは子規の評を要約していきます。
この「もののふの」の歌は万葉の時代に流行した一息に書き上げるスタイルの歌で、卑しさがないと子規は評します。
「もののふの八十氏川の網代木に」は贅物と子規はいい、言葉を贅沢に使っていると指摘し、その類の歌には百人一首でも有名な「足引の山鳥の尾の長々し夜をひとりかも寝む」の歌があるといいます。「足引の山鳥の尾の」の歌は小倉山荘のHPにわかりやすい解説がありますので、添付しておきます。
しかし、子規は「足引の山鳥の尾の」の歌は前置きのために言葉が使われていてまったく役に立たないと言います。たくさんのなかに一首二首あるのはいいが、真似すべき歌ではない。こういうのは名所の歌の手本にはならないと手厳しく子規は評します。
月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど
この歌は最も多くの人に鑑賞されている歌だと子規は言います。
この歌の「月見れば千々に物こそ悲しけれ」のすらりとしたところは難がないと子規は評しますが、「我身一つの秋にはあらねど」は理屈で、こういう歌を評価する人は理屈から離れられないと子規は言います。子規の時代の歌人に理屈の歌が多くてこんなもの歌人とはいえないと辛辣なことを子規はいいます。
芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
八田知紀の名歌だそうだけども、これで名歌なら底が知れていると子規は言います。それは「霞の奥は知らねども」のところが理屈だからだと子規は指摘します。ただ注意するのは理屈というのはいつでもダメというのではなく、客観的な景色の連想をする場合には理屈ではなないと子規が言っていることです。
「駒とめて袖うち払ふ影もなし」という歌の一節は客観的な景色を連想したもので理屈ではないと言います。
子規のいう「理屈」を考えるとき「客観のなかの連想」というのがキーワードになりそうです。
うつせみの我世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり
驚くべき理屈の歌だと子規はいいます。嵐の山の桜が美しいというのは客観的ことなのに。この歌はその様子を理屈で現していると子規は指摘します。「べき」なのは嵐の山の桜「なりけり」と結んでいて殺風景でくだらない趣向でまったく取るべきところがないとクソミソ。。。
まとめ
ここまでで感じたことは、この『歌よみに与ふる書』では、子規の考える秀歌の主張に論の背骨があり、丁寧に歌の鑑賞をすることには主眼があたっていないことです。歌のつくりかたのアプローチではなく。良い歌と悪い歌の比較をすることによって子規の考える短歌のあるべき姿へ導いていく。
子規の自論で終わらないのは過激かつ軽妙な文章の構成で読者を巻き込んでいくことができるからだと感じます。人々を巻き込むような文章を書きたいですね。
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