感情はどこから生まれるのか。映画「ボーダー 二つの世界」
統一性のない映画ブログで申し訳ないのですが、もう、書きたいように書きます。
感情を揺さぶられる、不思議な映画に出会いました。
スウェーデンの作家、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが脚本を手掛けた、映画「ボーダー 二つの世界」を鑑賞。
人間の感情、
「羞恥や罪悪感、怒りなどを嗅ぎ分けられる」と言う主人公、ティーナの物語です。
鑑賞後、ふと気になったのは「ボーダー(境界線)」の部分。
何故ならば。
ボーダー、それは至ってシンプルなテーマであるように見えて、実にマルチプルなメッセージ性を誘発するから。
ある人は、男と女と言う。
ある人は、格差社会や差別と言う。
ある人は、人間と動物の違いと言う。
ある人は、善と悪と言う。
ある人は、醜美と言う。
ある人は、「われわれ」と「やつら」と言う。
ある人は、内包と排他と言う。
ある人は、現実と異界と言う。
また、ある人は境界線を分断と呼ぶ。
また、ある人は境界線は「引く」と呼ぶ。
また、ある人はぼやけた境界線のファジーな部分から真意を見出そうとする。
これ程汎用性のあるメッセージを含んだテーマは、なかなかない。
一見ひとつひとつがバラバラに見えるけれど、実は繋がっていて、
それらからは、とんでもない巨大な何かを感じさせられます。
感情を多方面から揺さぶられながら、
スウェーデンの自然美、主人公の裸体、動物達のその何ともプリミティブな映像に、
「初めてを知る時の高揚感と恐怖」のような感覚を味わう映画でした。
※以下ネタバレあり
――人並外れた嗅覚を持ちながらも醜い容貌のせいで孤独を強いられるティーナが、ある男との出会いにより、人生を変えるような事件に巻き込まれていく。―― (公式HPより)
私は、この「孤独を強いられる」という部分が何となく腑に落ちない訳です。
主人公のティーナは、孤独を「強いられる」というよりは、自ら孤独を選択していたように見えました。
やっぱり、孤独にはなるべくしてなるものだというイメージがあるのかな。でも、そういう受身的なイメージは感じられなかったです。
孤独を強いられると言うよりは、異質と感じる自分の存在を社会に馴染ませないよう、自らと自らの世界から周りを切り離しているように見えました。
でも、それって特段悲しい事じゃないと私は思うのだけどね。
そんなわけで本題ですが、私がボーダーを感じたのは、「感情と本能」についてです。
感情って、どこから生まれてくるんでしょう。
ティーナの正体は、人間ではない怪物。山の草を引き抜いて食べたり、雪を食べたり、虫を食べたり。
どうしたって人間とはかけ離れている。
だけど、彼女は「感情を嗅ぎ分けられる」と言う。
人々は、感情を「人間的な部分だ」と認識するけれど、この感情そのものが、本能である可能性はどうして捨てきれようか。
そもそも、感情という言葉自体も人間が作ったのだから、不自然ではないにせよ、不思議だ。
感情は、言葉ひとつで支配される事だってある。言葉に縛られた感情というのは、現代の煩雑なインターネット社会がいい例だ。
しかし、血が踊り、動脈が張り裂け、鼓動が高鳴り、湧き上がる何かを「感情」と呼ぶのなら、我々の意識とは相反して成り立つ一方的なものも含めたら、それを「本能」と呼ばずにいられるのだろうか。
ティーナの野性的な部分と感情的な部分から、私はそのように感じました。
これが私の(どちらかと言えばファジーな)ボーダーを感じた部分でした。
生きていく、って。言葉って。
決して、テーゼじゃないんだよ。
だからこそ、感じるって事を、これからも生きていく中で大切にしていきたい。
そんな自分と、向き合える映画でした。