「天国でまた会おう」からみる刹那的な生きざま
セザール賞を5部門受賞した2019年公開のフランス映画、「天国でまた会おう」。
「その女アレックス」などで知られるミステリー小説作家、ピエール・ルメートルの世界大戦三部作のひとつで、同名のミステリー小説、「天国でまた会おう」が原作となっています。
この映画では映像はもちろん、物語の美しさにも魅了されます。そこには、刹那的な時間を生きるということの美しさや儚さが散りばめられていました。
今回はこの「天国でまた会おう」から、刹那的ないきざまについて考えていきたいと思います。タイトル、「天国でまた会おう」とは一体どういうことだったのか?
(以下ネタバレ含みます)
私が思う、この映画の見どころは3つです。
⑴エドゥアールがお面を代わる代わる少女に見せるシーン
⑵エドゥアールが開いたパーティのシーン
⑶エドゥアールが父親と和解するシーン(からの、衝撃的な展開)
他にも、個人的にアルベールがエドゥアールの一家の家に招かれるシーンがお気に入りですが...(笑)
この3つのシーンの魅力は
主人公エドゥアールが、「今という時間をはち切れんばかりに生きている」というところです。
嬉しいときには笑い、悲しいときには泣く。
そんな当たり前のような生き方が、エドゥアールにとっては理想の生き方だったのではないかと思います。
だから、詐欺を働こうと決めたあの日から
エドゥアールは自分の理想の世界で、過去の悲しみや寂しさを埋めていくように、また、誰かに見せつけるようにありありと、今という時間を生きたのでしょう。
その生きざまはなんとも美しく、儚い。
まるで、打ち上げ花火のように。
しかし、それはエドゥアール自身の生きざまではなく、仮面を被った新・エドゥアールの生き方だったのでしょう。彼が仮面を剥いだとき、彼は理想の世界では生きられなくなります。
その恐怖や善と悪の間に生じたジレンマ、後戻りができない自分の惨めさ。それらが相まって、彼はあのような決断をしたのではないかと思います。
最後まで彼は、仮面を被った新・エドゥアールの姿でこの世を去ったのです。
衝撃的なシーンではありましたが、なんとも美しく、観る者を圧倒させたシーンではないでしょうか。私自身も、今でも瞼の裏にあのときの彼の姿が焼き付いています。
彼は、刹那的な時間を生きることの大切さを教えてくれました。自分の理想の世界を生き抜いていくには、洗練された自己との対峙が必要なのかもしれません。
タイトルの、「天国でまた会おう」も素敵ですね。愛した者とは、天国でまた会える。だからこそ、今という時間は自分だけのものとして生きていきたいものですね。