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ショートショート 郊外

やけに蒸し暑い日が続いた。夏の終わりと秋の境に、頬を撫でる夜の空気は水分を多く含んで、心まで重い気持ちにさせる。


僕はいつも通り、バイト先で支給された制服に着替え、画一的なマニュアルに沿って、今日も適当に「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を繰り返す。


夜のコンビニには、色んな人が来る。お酒を買い込んで夜を語り明かす大学生の群、小腹が空いたのか、ほんの少しのスナックを買いに来る同棲中の若いカップル、疲れ果てた顔でご褒美のデザートを買いにくる仕事終わりのOL、小銭をじゃらじゃらさせてタバコを買いにくる中年。



僕はそんな彼らを観察して、その背景を勝手に妄想するのが好きだった。コンビニに来る多種多様な人々と、彼らのルーティンから見える生活の背景。たった数秒、商品をスキャンして会計する、たったそれだけの僕と彼らのコミュニケーションの中で、僕は確かに彼らを見ていた。



そんな僕の日常は、至って平凡だった。何不自由なく毎日は淡々と過ぎて、その日々に特に思い入れもない。何かに関して本気になったことも、これからやりたいことも、夢も、目標もない。
とりあえず、今を出来るだけ普通に、人と同じように、それこそコンビニの業務みたいに画一的に、これからも決まり切った道を歩んでいくのだろう。僕はそういう奴だ。



「いらっしゃいませ」

時計は23時を過ぎていたころ、普段は見ない珍しい客が僕のレジの前に立った。
彼女はいかにも生真面目そうに、黒い艶やかな髪を後ろで高くひとつ結びにして、指先は何の色もついていない自然な、それでいて整えられた綺麗な爪で、小さなプリンをひとつ、カウンターに出していた。

「レジ袋いらないです」

透明で綺麗な声が聞こえたと思ったら、彼女はいつの間にかさっさと会計を済ませて、プリンをスッと自分の方へ引き寄せて、そのままコンビニを出て行った。

「…ありがとうございました」



翌日から、彼女は毎晩23時頃、決まってコンビニに来ては、生真面目な黒髪を揺らめかせ、小さな130円のプリンを買って帰った。僕は毎日コンビニにいるわけではなかったが、夜番のときは毎回彼女にプリンを売った。
毎日23時にプリンを買って帰る女。僕の日常の中に、彼女は確かにほんの少し、現れた。



僕は、人を観察するのが好きだった。勿論毎晩プリンを買って帰る彼女のことも、僕はよく見ていた。年齢はおそらく、同じくらい。20歳前後といったところか。大学生の割には化粧気がなく、素朴で、高校生に見えないこともない。しかし身の振り方や声のトーンは落ち着いていて、大人っぽかった。何より黒髪の揺らめきが大人のそれで、魅惑的ですらあった。



あるとき、ひょんなことから僕は彼女の所在を知ることになる。
彼女が珍しくプリンを買わなかった日、代わりに僕が受け取ったのは「東大模試」の受験料と、受験票届のための個人情報記載の伝票だった。
彼女は僕より一つ下の、今年で22歳になる学生だった。大学生なら今年で4年生のはずだが、彼女は東大模試を受けようとしているから、おそらく浪人生なのだろう。同じ年の友達が大学に入学して卒業する、丸々4年間もの日々を、彼女は東大への道のりに費やしたことになる。


僕には到底、信じられないことだった。僕の淡々と流れる毎日には、これと言った野望や希望も、挫折しそこから這い上がって進む強さも見当たらなかった。彼女は今、戦っている。その艶やかに靡く髪に、畏れと尊敬と、そして憧憬を抱いたのは、多分このときからだ。


それから何日間も、やはり彼女は毎晩23時ごろに僕の働くコンビニを訪れては、小さなプリンをひとつだけ買った。もちろん、時々シャーペンの芯とか、ノートとか、きっと勉強に必要なのだろうと分かるものも買っていった。そのたびに僕は、ただ「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を繰り返した。でも、いつもより少しだけ背を伸ばして。そして、彼女への憧れをひた隠しにして。


季節はいつの間にか、冬の始まりを感じさせていた。コンビニの前には、風に吹き溜まった落ち葉が身を寄せ合い、こんもりと小さな山を作る。僕はその落ち葉を箒で履いて、掃除をする。手袋をしていない手は、少し風が吹くと赤くなってしまう。それくらいに、冷たい11月だった。

相変わらず彼女は飽きることなくプリンを買いに来る。かれこれ2ヶ月間、ずっとプリンを買い続けている。僕は、彼女ほどのプリン好きに出会ったことがない。そして僕はまだ一度も、彼女とちゃんと会話したこともないのだった。

「あの、雪城さん。ちょっといいすか?いつも、23時にプリン買いに来る女性、知ってます?」

尋ねてきたのは、三つ下のバイトの後輩だった。今年の夏から入社した大学二年だ。

「俺、あのプリン先輩知り合いなんすよ。中学校のときの部活の先輩で」

「ああ、そうなんだ。23時にいつもプリン毎日買いに来るよな、あの人」

「神奈先輩っていうんすよ。神奈ゆかり先輩。昔から頭が良くて、足が速くて、陸上部のエースで憧れでした。今何やってんすかね?いつも私服だから、就活…とかではなさそうすよね」

「知らねーよ。客の身元なんて興味あるかよ。そんなこといいから、田原は仕事しろ」

「うぃす、すんませーん」



季節は12月の半ばを過ぎて、コンビニにはクリスマスを意識した商品が立ち並び始めている。クリスマス限定の、ふわふわ苺のショートケーキを無視して、彼女はいつも通りプリンを手に取る。

彼女の黒髪は、いつになっても黒髪のままだった。夏頃は靡いていたあの長い髪は、マフラーに包まれておとなしく、それでもその艶やかさを抑えきれずに僕の目をくぎ付けにした。僕の彼女への憧憬は、相変わらず憧憬で在り続けたし、僕は未だに彼女とまともに話したことはなかった。

「ごめんなさい、同窓会は不参加でお願い。毎年声を掛けてくれて、とても嬉しい。いつも断ってばかりでごめんなさい。また落ち着いたら必ず会おうね、ありがとう。うん、私、頑張るから」

ゴミをまとめて、外の廃棄ボックスに持って行ったとき、彼女が電話で話しているのを聞いてしまった。彼女がそっとスマホをしまったあと、気持ちを押し殺すかのように手を握りしめたことも。
強張った肩が、おそらく堪えた声とともに、その背中は泣いていた。冬の張り裂ける空気と、音のない夜の中で、彼女は泣いていた。



あぁ、好きだ。

きっと、何かと戦うときは、誰だって孤独なのだろう。それでも、人知れず握り潰した悔しさや焦燥だって、それすら彼女を輝かせる。
冷たい夜に、娯楽を投げ捨てて、ほんの小さなプリンを毎日の幸せにして一人闘う彼女は、この世の全ての美しさよりも、何よりも美しかった。



生きた心地のしない冷や汗の出るような日々、誰もが自分を置いて先に進んでいく中で、自分だけ取り残された感覚を、社会から切り離された孤独感と、どうしようもない敗北感を、僕は知っていた。



何度も何度も、何度もやったのだ。できることは全て試したのだ。それでも無理だった。僕はどこからも誰からも、必要とされなかった。
日々増えていく受信ボックス、不採用通知、お祈りの言葉、不甲斐なさ、敗北感、劣等感、焦燥、混乱、不安、将来性、葛藤、打算、惰性、嫉妬、羨望、眠れない日々、歪んでいく心。
全てが僕を苛んで、逃さなかった。
だから捨てたのだ。

そしたら、いつのまにか捨てられた。

「幸人といても、私幸せになれない気がする。
別れよう、今までありがとう。私は私で幸せになるから、幸人もいつか、幸せになってね」


手を差し伸べてくれる人もいた。

「兄貴さ、いつまで家にいんの?俺、もうすぐこの家出ようと思ってんだ。兄貴もそろそろ、自立しなよ。就職活動、俺終わったからさ、手伝おうか」

「ねぇ、大丈夫なの、幸人。お母さん、何かできることはない?」

それすら情けなくて、同情が気に食わなくて、捨てたのだ。もう、無理だと思った。



彼女の押し殺した苦い感情を、きっと多分、僕は痛いほど知っている。選ばれないという現実を。

そして、僕はそれに屈服したのだ。
画一的な日々は、逃避だった。至って平凡な日々は、ほんの仮初の安堵だ。
制服のポケットが微かに振動する。通知を見ると、父からのメッセージが来ていた。

「お前、もう就職活動はしないのか。
このままアルバイトで生活する気か?お前の人生、これからどうしていくつもりなんだ?」


スマホから目を逸らした。ゴミを廃棄ボックスに投げ入れ、店に戻ると、彼女はまたプリンをレジに置いていた。はじめて会ったときと少しも変わらず、その長くて細い指は、綺麗に揃えられた爪を携えてプリンを引き寄せる。

負けるな。

負けるな。闘って、勝ってくれ、全てに。

そんなことを想いながら、彼女の黒髪が店を出て行くのを見送った。
この日を境に、彼女の姿はパッタリと途絶えた。




冬は気がつくと通り過ぎていた。
刺すような張り詰めた朝の空気は、次第に穏やかな湿度を含む空気に変わって、コンビニの植え込みにも色が付き始めた。
相変わらず僕は画一的な日々を過ごしていて、その日は珍しく昼に出勤していた。
「いらっしゃいませ」

新発売の、「君のためだけのプリン」が、そっとレジに置かれた。この商品は、つい昨日から店頭に並んで、以前よりも卵の割合が増えた、少し贅沢なプリンだ。

レジに置かれたプリンは、細くて白い指に押されて僕の手元にやってきた。ちょうどコンビニの花壇にポッと咲いたパンジーのように、パッと目を引く黄色の、綺麗に整えられた爪が見えた。

その瞬間、全てを察した。
「レジ袋は、いりません」
その声は相変わらず、無駄なものは一切含まない凛とした音だ。プリンを引き寄せた指先と、そのままふっと背を向ける気配を感じて僕は顔を上げた。

春の淡い色に身を包んだ彼女は、前と一つも変わらないその真っ直ぐな後ろ姿で、ふわりと軽いスカートを靡かせて、あの長くて艶やかだった黒髪は、光を反射して明るく、殊更美しく茶色く輝いて、柔らかく消えた。


深く、深く呼吸をした。
勝ったんだな、自分に、すべてに。

「幸人さん、どうしたんすか。なんで笑ってるんですか。気持ち悪い」

「なんでもねえよ、馬鹿。それより俺、ここ辞めるわ。今月で辞めるから、よろしくな」

「えっ!?いきなり!?幸人さん頼りにされてたじゃないすか!困りますよ、幸人さんシフトえぐい多いじゃないですかー!!代わり、誰がやると思ってんすか!」

「お前だよ、馬鹿。つべこべいうな」

「口悪!」


またドアが開く。
「ホラ、準備しとけよ。

……いらっしゃいませ」

次の客も当たり前のように、君のためだけのプリンをレジに置いた。





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