スマホ時代の哲学【読書report】
そっか、精神分析学は哲学の仲間だったのか!
まずそこに納得してしまった。
大学院時代に最初に触れたものだったことから、一番馴染みのある理論は精神分析だ。
でも昨今心理学を学んでいる人達から、
「精神分析は科学じゃない」
という批判をよく聞く。
確かに、科学とは違う気がするが、
「科学ではない=正しくない(何ならマヤカシ)」というようなイメージで語られるので、ちょっとそれは納得がいかなかった。
私としては、人の理解に使いやすい学説だと思っているからだ。
しかし考えてみれば、
哲学も科学ではないが、きちんとした足場のある学問として正々堂々と認められているではないか。誰も、ニーチェは科学的ではないと言って批判したりしない。
著者が、精神分析学派を標榜する東畑開人をニーチェやパスカルなどと並べて引用したり、精神分析対象関係学派のビオンやオグデンを多用したりするのを、まるで鮮やかな謎解きでも見るように、読んでいた。
さらに面白いのは、題名の通り、この哲学書のテーマは「スマホ時代」。
精神分析学の専門文献を読むと、対象となっているのは精神病理であるが、
この本の対象は、現代の私達全般なのだ。
そうか、精神分析って現代社会を哲学することができるのだ…!
それは発見だった。
これまで、「自分の中に湧いてくる感情を抱えることができず、切り離してしまう」心の在り方は、精神病理の一部だと捉えていたが、
実は特殊でも異常でもなく、広い意味で現代人の姿そのものだった、ということがこの本での大きな気づきだ。
そして、そういう姿を説明する道具として、精神分析学は(も)有効である、ということもまた再発見の一つだ。
そういうことを、内輪のヒト達(=精神分析家)が論じるのではなく、
哲学者という違う分野の人がきっちり
語ってくれることは、世間に認められたような気がして新鮮かつ爽快だったのだ。
以下、私がひとり大きく頷いて読んでいたことを簡単にまとめる。
このスマホ時代は、「常時接続の時代」(by シェリー・タークル)と言われるように、ここではないどこかで別の情報を得たり、別のコミュニケーションに参加することが可能だ。常に誰かとの薄く広いつながりで満ちており、簡単に「孤独」にはなれない。
なぜなら自分の感覚を押し殺し、なかったことにしてしまう行為だからだ。
それはやはり、心に深い傷をおった人の症状と相似形なのだ。
最近では事件や事故、果ては自殺企図の現場であっても、人々は通報するより前にスマホで動画を撮影する。今は感じる激しい違和感も、徐々になくなっていくのだろうか…と震撼してしまう今日この頃だけど、おそらく皆、ショックや不安を誰かと共有することで、「なかったもの」にしたいのだろうと思う。
その場で、1人ショックに耐えたり、少なくとも隣の人と共有する…ということがなくなっている。新しい道具(=スマホ)の到来で。
しかしこの著者は、「常時接続の世界」を単純に批判しているわけではないのがポイントだ。「孤独になれない現代人」を批判するのかなと思いきや、そのことによって何が失われているかを述べた上で、それを補う方法について軽やかに提示する。(その方法については割愛)
そして、
「ネガティブ・ケイパビリティ」論への展開。
わからないものをわからないものとして、曖昧にしておく力、
安易に対象を把握できると思わない、自分を疑う姿勢としてのネガティブ・ケイパビリティ。
創作活動や、人間としての深みを追究する時、他者を理解しようとする時に必須となってくる能力なのだけれど、説明がつかないことをそのまま解決せずに置いておく…ことは、「常時接続の世界」に生きている私たちには、困難になってきている。様々なテクノロジーや習慣がそれをできなくさせている、と著者は言う。
そう言えば私の子は以前、水筒をなくした時「どの時点まで持っていた?」と聞くと、
考えるより先にSECOMのパネルを見て
自分の映像を巻き戻し、
「この時点では持っていたんだよな」
…とか確認していたものだった。
つまり、外付けメモリーに頼っていたわけで。
度忘れしたタレントの名前を一生懸命思い出そうとするよりも、さっさと検索した方が速い、ってなっちゃうし、
友だちに確認したいことも、明日まで待たなくてもLINEで聞く。
来週のドラマの予約をわざわざしなくても、TVerで見逃し配信してくれる。
改めて振り返ると、情報にしても考えにしても、「外付けメモリー」がたくさんあるのだから、わざわざ自分の中で保っておく必要がなくなっているんだなぁ、って思う。
情報や単純な事実確認なら別にいんじゃない?というのが多分落とし穴で、
そういった一つ一つの積み重ねから、
「何かを自分の中に保っておく」「自分の中を内観する」「思い返す」
という作業自体が面倒になっていくような気がする。
それはやはり退化なんじゃないかな。
子どもについて言えば、そもそもそういう力が育たなくなっていくだろう。
人類全体が、そのような深く考えず共感できない存在になっていくのであれば、自分だってそのまま、何となくこの流れに身を任せてもいいような気もするが、
やはり、一人「孤独」に、じっくり自分の中にあるモヤモヤしたものや、日ごろなかったことにしている違和感とじっくり向き合ったり、
また、あえてそのような感覚を得られるような「趣味」を得てみたりすることは、
職業としても、親としても、一人の人間としても必要なことなんだ、と一人こぶしを握りしめた私だった。
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