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又吉直樹さんと太宰治がもたらした衝撃

出不精の私が定期的に通うお店が2件ある。
1軒目はお花屋さん。このお花屋さんは以前投稿した【3年後の自分にお手紙を書いた話】で手紙を書くきっかけとなったそもそもの企画者である。
2軒目は洋服&雑貨屋さん。そこに行くと色んな物や人に出会える。
どちらも店主がめちゃめちゃ魅力的で、そして本好きという共通点あり。

私は人との距離感が掴めないというか、なんせ人付きあいが得意ではない。いや、むしろ大いに苦手。
人と会話すると、後で回想が始まってしまい、ぐったりしてしまうことが多い。なんせ頭がうるさくなりがち。
なので、人との関わりは付き合いの範囲が立場や役割などで限定されている方が楽だったりする。店主とお客というのもしかり。
お客として丁寧に扱われたいという事ではなく、立場によって生じる距離が必要という感じ。
「こんなことではいかん!ありのままの自分を出していくんだ!」と、あれこれやってみた事もある。結果、つらすぎた。だって、ありのままの自分を出せない自分を否定してるわけやから…。

そんなわけで、大抵はその限定された関係を保とうと頑張る。頑張るから結局しんどなるねんけどね。いや、そもそも頑張らなあかん時点で楽ではないやろ、むしろツライと気付け!気付いてるはずや、ええ加減それもやめよや…。
まぁ、なんせこんな感じで自分でもややこしい。

だが時に自分でもびっくりするほど自ら近づいてしまうタイプの人がいる。
それがこの2人の店主。
何がそうさせるのか、この2人、妙な安心感がある。それからそう!言い方失礼やけどと、すごく興味深い。

私は自分の人生に起こる出来事や登場人物を研究対象として捉えているところがある。一方で、いきなり近視眼的になり、限定された視野の中で正解を探そうとする所もある。立場の中にいることが楽なはずなのに、立場を意識しすぎて上手くやろうなどと考えるとお立場モードに突入。途端に頭がうるさくなってツラすぎ権左衛門。
研究モード突入するのきっかけは興味と本がセットになった時。研究モード中の「はっ!」という何かが繋がったような感覚は私に生きる喜びと新しい景色を見せてくれる。

本日は洋服&雑貨屋さんの店主がきっかけとなって起こった話。

ある日、店主に1つ前の投稿、【うっかり人生に絶望した夜にやってきたもの】でのエピソードを笑い話のつもりで話したところ、帰り際に、「この本、中(買い物袋)に入れといてかまわへん?」と。
見るとその本は又吉直樹さんの『夜を乗り越える』であった。
タイトルからして、私の話を聞いた店主は「こいつ大丈夫かな…?」と考えた模様で、心配をかけてしまった申し訳なさと、店主の優しさに温かさを感じた。
そして同時に、ついに来たか…と。
ついに来たって何がやねん!って…又吉直樹さんがよ!

これ、ほんまに自分の勝手な解釈で又吉直樹さんには失礼過ぎてホンマに申し訳ないのやけど…。
YouTubeやったり、インタビューの記事を見ていると、又吉直樹さんは何故か自分と近い感覚を持ってはるような気がして、勝手に「きっとこの人、おんなじ星の出身やわ」とか訳の分からん事を度々友人に話すほど。
親近感と同時に、どこかで「この人の本、読めるやつと読まれへんやつあるかもしれん。」と。
というのも、なんか痛いとこ見るはめになって、自分の事嫌になるんちゃんかと、防衛反応てきな感じであえて読まず。
私の表現でいうたら、太宰治さんもまたおんなじ星出身。そんなわけで、こちらも回避。
(ていうか、又吉直樹と太宰治、呼び捨てはどうやねんと思ってさん付けたけど、太宰治さんは違和感あるからやめよ。しかし、作者てどない呼ばせてもらうのがええのやろか…)

だがしかし、又吉直樹さんの本はやって来た。
店主経由で本の方からやって来た。
次の扉出現。これは…読むしかない、ついに読むときがやって来たのだと覚悟を決めて読み始める。そして、その日のうちに読了。
途中、何度も訪れるチクッとする感じと納得感。ついに恐ろしさよりも興味が勝り、次は又吉直樹さんの『人間』と太宰治の『人間失格』を読もうと決意した。
まずは太宰治から。いつもはAmazonやけど、どうしてもすぐに読みたくて朝から本屋へGo!
ちょうど古典特集やってる。太宰治ももちろんある…けど、『人間失格』がない。なんで?
代わりに目の前にはピンク色の可愛い表紙『女生徒』。
なんや、太宰治に先こっちで準備運動しときと言われているような気がして『女生徒』を購入。
太宰治の『人間失格』と又吉直樹さんの『人間』はAmazonで注文。
そして再び読書の時間。
太宰治の『女生徒』、「何か分かってまうな…ていうか私にもあるな、そーいうとこ。」
又吉直樹さんの『人間』、「え、やめて、私やねんそれ。やめてくれへん?言語化するの!」…何度本を閉じて深呼吸した事か(笑)
太宰治の『人間失格』を読み終える頃には「そうか、私だけじゃなかったんや。」と。

生きて行く中で起こる色々なこと。そんな中で、私は何故生きているのか、あーでもない、こーでもないと、答えがあってないような事を考えるのが好きだったし、生きづらいと思えるような、自分にとってはつらい事がどこかで自分だけにしかない特別な悩みだと思っていたらしい。
読みながら、中に出てくる言葉を調べて頭の中で旅に出る。
旅が終わる頃には、自分にしかないと思っていた特別な悩みなど、お釈迦様の時代から人間のお悩みベスト10に入るほどメジャーなものらしい。という結論に至った。
これは私にとって、なかなかの衝撃であり、そのあっけなさは涙と共に大爆笑と残念感をもたらした。
…残念感?何で?
どうやら私はどこかでこのような大変な悩みを抱える自分は特別なすごい人間だ。と思っていたらしい。でも、その悩みは突き詰めればどこにでもあることなのだと気付いて、そうか、特別じゃなかったんや…と残念がっているらしい。
なんやそれ、恥ずかし!でもなんや可愛らしい気もする。自分おつかれ!
悩みでさえも自分だけのものでないのなら、もはやこの世に自分だけのものなんてない気がして、ちょっとさみしい気もしたけど、軽くもなった。

生きることそのものが研究みたいなもん。いや、研究発表みたいなもんかな。その研究もいつかは終わるわけやけど、その時がくるまで、きっと生き抜いてみせる。




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