剣豪,フリーランス武士「宮本武蔵」が、後世に伝えたかった生きざま ②
30歳を越して
その足跡を振り返えり
自分はまだ未熟であることを痛感した武蔵は
その後も朝夕鍛錬をつづけた結果
50歳にして道を究めた。
武蔵には師匠はいない。
兵法の道理に従って全て自らで悟りを得たのである。
武蔵が二天一流(武蔵が究めた剣術)の
本当の意味を書き表そうと10月10日の夜
午前4時に筆をとって書き始めた
これが「五輪書」である。
熊本市の西方
有明海に面して金峰山がある。この山の中腹に雲巌寺がある。寺の奥にある洞窟を霊巌洞といい武蔵はこの洞窟にこもり、五輪書を書きあげた。
霊巌洞は武蔵が静かに波乱の生涯を振り返り、勝負の道をまとめあげるのに絶好の場所であった。武蔵が「五輪書」を書いたのは寛永20年(1643年)彼が60歳の秋、死に先立つこと2年のことである。豊臣氏が滅亡してから30年近くが経過し、徳川三代将軍家光の治政もすでに20年、封建の国づくりは、ほぼ基礎固めをおわろうとしていた。
武蔵は一生、妻をめとらず、髪に櫛を通さず、入浴もせず、流浪の旅を過ごしてきた。寛永17年九州熊本の細川忠利の客分となっていた。客分であるから細川家と雇用関係を結んでいたわけではなく、あくまでお客さんとして持てなされていたのである。
武蔵の生涯は、一時的に傭兵として戦に参戦することはあっても、仕官する(誰かに仕える)ことはなく、諸国流浪の旅をしながら剣の道を一人で究めてきたのである。言うなれば「野武士」である。フリーランスの武士であった。故に、生活、剣術、流派など全てに縛られない自由な強さがあった。武蔵の強さはまさに、野武士の強さ、フリーの強さなのである。
フリーランスの強み
※ 時間を自由に使える。 (子供の頃、家庭の事情などで学校を早引きする事がたまにあったが、クラスのみんなと一足早くお別れして一人下校する、あの時の解放感、自由感はなんとも言えない喜びだった。あの感覚はとても大事だ。これからの時間、何でも自由に好きなことができるという感覚、自由な発想) ※ 好きなやりかたで仕事ができる。 (会社や先輩などのやり方に囚われない、型に囚われない) ※ 自分の価値観で仕事ができる (人生時間の使い方は人それぞれ自由だ。自分が価値を感じるものに時間を投入できる。)
参考、引用「五輪書」神子侃訳 徳間書店