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酔灯夜話 #45

考古学と歴史について考察
1.考古学とは
 考古学とは、人々が生きるためにこの大地に働きかけた跡である「遺跡」やそこから発見される様々なモノ、すなわち「遺物」から、人間の歴史を考える学問である。考古学は少なくとも我が国においては歴史学の一つとして位置付けられている。ただこれは国や地域によっては多少異なっており、例えばアメリカ合衆国において考古学は人類学の一部門と位置付けられている。これはアメリカ合衆国の歴史がヨーロッパ人による移住後との認識によるものであろう。
歴史を学ぶにあたって最も直接的な手段として、当時の人々が記した文書や記録(文献)を読むのが考えられるが、①文字を利用する以前の歴史を知ることができない、②当時では当たり前のことをわざわざ書き記していないことが多い、③記載されていることが完全に事実とは限らない、といった点が文献史学の限界である。こうした限界を補うものとして重要な役割りを担う資料が、人々が残したさまざまなモノ資料、すなわち考古資料であり、また風俗・習慣・儀礼などの伝承資料、すなわち民俗資料である。つまり歴史研究は文献資料、民俗資料そして考古資料の3者が相互補完して進めていくものであり、考古学はその一翼を担う重要な位置づけであることは言うまでもないことである。
一方で考古学的知見により過去様々な自然災害や環境の変化に人々がどのように対応したかも明らかになってきており、現代の我々に対して環境問題の側面からも考古学は役割を果たしていく学問とも言える。
2.考古学の方法
 考古学研究はまず遺跡の発掘調査から始まることは言うまでもない。発掘調査とは当該遺跡における様々な遺構群の構成、そこにおける遺物の在り方を明らかにする行為である。遺跡にも様々な種類があり、遺跡の性格によっても発掘の方法はそれぞれ異なる。従って発掘調査に際しては遺跡のもつ多くの情報を正しく把握し、正確な記録を残すことが求められる行為である。
 考古資料を歴史研究に役立てるためには発掘した遺跡・遺構・遺物の年代を決めなければならない。年代を決める方法として相対的方法と絶対的方法があり、絶対的方法だけでは年代を確定することが困難であり相対的方法と組み合わせて決定が行われている。相対的方法として型式学的アプローチと層位学的アプローチがある。前者は生物の進化の原理を応用したもので遺物についても原初の祖型的なものから次第に発達し、やがては退化していく過程を経るとの考え方に基づき遺物や遺構の変遷順序を想定するものである。後者は地質学で用いられていた方法を考古学に応用したもので、地層の下層部は上層部より古いという原理に基づいて各層に含まれる遺物や遺構の前後関係を明らかにするものである。次に絶対年代の特定について述べる。まず代表的な方法として年輪年代法が挙げられる。これは木の年輪のパターンから年代を決定する方法で気候の変動によって年輪のでき方が変わる。この変動パターンを利用し変化の特徴から年代を決める方法で、100年以上の年輪を持つ保存状態の良好な木材資料に限られるなどの制約はあるものの測定精度が高くすぐれた方法である。もう一つ代表的な方法として、炭素14年代法である。これは動植物が死滅後に持っていた放射性炭素である炭素14の濃度減少率が一定であることから、発掘物もしくは発掘物に付着した有機物の炭素14の濃度を測定することで年代を推定する方法である。これら年代測定の技術は日々進歩しており将来にわたって考古学研究の重要な手段となることが期待される。
3.考古学から導かれた知見
 発掘された遺跡や遺構を基に考古学は我が国の歴史にどのような知見を与えてきたのかを、各時代別にまとめてみる。
(1)先土器時代
 人類が土器を用いて生活するより前の時代で、遺物の中心は石器であり動物の骨等が中心となる。石器の場合は周囲に散乱した石器の破片も合わせて調査することで、当時の人たちがどのように石器作りをしたかがわかる。そこから得られることがらは個人個人が勝手な手法で石器を作ったのではなく、彼らが属する集団の文化的伝統に従って共通の石器を作っていたこと、また同じ石器の破片が別の場所で発見されることから、この時代の人々は共通の文化的基盤でつながった集団で、しかも次々に生活の場を変える、いわゆる遊動生活を送っていたことが、考古学からの知見として得られる。また動物の骨やナイフ型石器の出土により、主な生業は狩猟であること、大型獣の骨も発見されていることから集団である程度組織的に狩猟を行っていたことも遺跡からうかがえる。
(2)縄文時代
 縄文時代はその独特の土器が作られたことから命名された時代区分であるが、概ね1万年を超える長い時代である。かれらの生活様式について出土した植物や動物、魚類の骨等の遺跡から多様な狩猟採集を行っていたことがわかる。またこの時期に起こった温暖化の影響から豊かな植物で構成された森が形成され、その中でも特にクリの花粉が多く地層から発見されることから、彼らはクリを栽培し主食として用いていたことも考えられる。さらに貝塚跡の調査では、申し合せたように成熟した貝だけを採取している姿が見て取れ、乱獲を避け自然と共存しながら営みを続ける、といったかれらの精神性までうかがうことができる。また大規模な集落跡の発掘によって整然とした構造であり、そこに一定の秩序が見出せるし、特定の場所で産出しない石で作られた石器の出土により集落は孤立せずある程度の交流をもっていたことも考えられる。縄文時代後期になると様々な儀礼の為の道具も作られ始め、また墓のような建造物も多くなることから、超自然的なものの存在や祖先とのつながりの中で庇護を求める気持ちなど、彼らの内面にまで考古資料によってある程度推察することができる。またこのことから縄文文化が決して安定した社会でなく後期にはその限界や矛盾も発生し始めていたのではないかと思われる。
(3)弥生時代
 この時代から本格的な船が出現したと見られる。その姿は遺跡に描かれた船の形状で確認することができる。このことから海上交通が盛んになり大陸との交流も活発におこなわれてきたことがうかがえる。またこの時期で起こったことで重要なことは、水田耕作の始まりと、青銅器・鉄器など金属製品の加工が行われたことである。このことは水田跡や青銅器や鉄器がこのころの地層から発掘されていることで裏付けられる。この時代の社会的基礎単位を考古学の知見から確定するのは容易ではないが、水田の規模や建物跡、さらには水田に残された足跡からおおよそ推察することができる。例えばある遺跡では概ね10人程度の3世帯家族を基礎単位とし、作業は指揮する年長者とそのもとで働く若夫婦と手伝う子供の姿がこれらから推察できる。また稲作は気候の変動により不作に遭遇したり、風水害等の天災が発生すると、周辺の集落との間で社会的緊張が発生しやすい状況を生み出す。社会的緊張が高まると紛争に発展し、その解決手段として戦争が始まったと見られ、鉄製の武器が多く発掘され、また戦死したと思われる成人男性の人骨も多数この時期の遺跡から発掘されている。さらに集落を守る為に周囲に堀をめぐらせた環濠集落も遺構として発掘されていることなどからも裏付けられる。一方で弥生社会の祭りの痕跡はいろいろなことからも発掘されている。この時代、青銅器の銅鐸、銅鉾、銅鏡が祭具に使われ始め、その集団の権威を示したり、その集団の支配者の神格化が祭りの要素に加わったと見られる。こうして次第に集団の力が強くなりクニに発展し、巨大古墳を造営するまでに発展していく過程をたどることとなる。
(4)古墳時代
 縄文時代、弥生時代が基本的には縄文土器なり弥生土器なり、それぞれの時代に用いられた土器を指標として時代区分設定がされていたのに対して、古墳時代は古墳と呼ばれる大きな墳丘を持つ墳墓を指標に設定されている。これは大きな墳丘を造営できる大きな権力なりがこの時代から発生したと見られ、社会の大きな転換点であることに相違なく、時代区分の基準がそれ以前と大きく異なったことが背景となっている。
 古墳の中でも特徴的な形をもつ前方後円墳は3世紀中葉から始まり畿内から西日本に、さらには東日本に広まったと考えられている。とくに西日本においては北九州から瀬戸内
にかけて分布している。この分布は中国および朝鮮半島との交易ルートと合致しており、このルートを掌握した政権が古墳を造営したものと見られる。また巨大前方後円墳は主に畿内に集中していることと考え併せ、政権の形は畿内に拠点を置く政権を中心に各地の王はその政権の配下に加わり、その証として前方後円墳の造営を許される形でいわば畿内の大王を盟主とする広域政治連合が形成されたことがわかる。
 この時代の集落のありかたについて、それまでムラを守っていた環濠や土塁が姿を消し、首長層が民衆の住む一般の集落から出て自らの居館を構えた跡が見られる。これは一つには前述の広域政治連合の進展に伴い安定した時代の到来を裏付けること、もう一つは社会が支配するものと支配されるものに明確に分離したことを物語っている。また集落跡からは水に関する祭祀遺跡が各地で相次いで発見されていることから、水田耕作の基盤である水を重要視し、水に関する祭りが重要な位置づけであったと見られる。
 この時代の前期には馬に関する副葬品が全く見られないが、中期以降の5世紀になると一斉に馬に関する副葬品が増えてきている。このことから中国や朝鮮半島との交流が一層盛んになり、乗馬の風習も広がっていったと考えられる。
 6世紀末になると西日本にて、東日本にて7世紀初頭に前方後円墳の道営は途絶えて終息を迎える。代わって支配者層は大型の方墳なり円墳が造営され、このことからこの時期に、前方後円墳の造営を媒介とした広域政治連合のありかたに変化が生じたと考えられ、7世紀の中葉以降になると大王墓にはそれまでになかった八角墳が造営される。大王のみに許される墳墓を造営することで、大王を頂点とする中央集権国家への移行との関連が考えられる。
(5)律令時代
 律令は中国で発達して隋唐時代に整備されたものであるが、それをうけて日本・新羅・渤海など東アジアの各地に律令国家が成立した。日本ではこの時代、巨大古墳によって権力の誇示よりも都城・役所・道路の建設などいわゆるインフラの整備が重視される時代であったといえよう。
 律令国家が律令を機能させるために役所と官僚制度が必要であり、中央官庁街を備えた首都である都城建設を必要としていた。都城は中国の都を参考にした碁盤の目のように道路を張り巡らせた条里制を採用し、藤原京・平城京・長岡京・平安京へと引き継がれていった。また都城造営場所の選定には風水の影響も見られ、ここにも中国の色濃い影響を垣間見ることができる。加えてこのころから直線官道の建設が急速に進み、政治的中心地である畿内地方で幹線道路を含む直線道路網を整備し、施行に関して土木技術の高さがうかがえる。また地方においても道路の整備を推し進め、情報の速やかな伝達、軍隊の移動、中央からの視察など律令国家の威令が速やかに全国にいきわたらせる重要な役割りを担っていたと考えられる。このように高度な政治機構を備えているものの、早い段階から律令国家の大原則である公地公民制度が変質していき、いわゆる荘園という私有地の出現することとなり、後の中世の時代につながっていくものである。
 この時代の産業として都城建設や寺院建設がさかんであったことから土木・開発が発達した。国家が少数の技術官人と多数の工人、臨時工を雇いいれこれにあたらせた。工人は制作過程に品質管理や賃金計算のための文字を記入していたが、これが完成時に白土で消されていることから、工人の名声でなく国家が品質を保証する国家という存在が意識された律令的な体制がうかがい知ることができる。
 精神文化においては、多数の寺院造営から仏教が大きな基盤であるが、多様な面も持ち合わせていた。人形・呪文木簡など道教にまつわる祭具の発掘や、太政官など儒教色のつよい組織、神祇官という神道色の組織など、その影響は多様性に富んでいる。
(6)中世
 中世は律令体制が崩壊し、西国に中心のあった既存の権力や権威が低下し、新たに東国に武家政権が成立した。このように東西二つの中心が存在するなど混迷と混沌と変化の時代であると見られる。このような時代にあってむしろ住民エネルギーが相対的に高まったと考えられ、列島各地に急速に町や都市が発展してきた。従って中世考古学においては町の跡の発掘からその時代を見ていくこととなる。
 中世は一方で「商品・物流」の時代でもあり、とりわけ町の発展において出土物がその当時の社会を知る手がかりとなる。発掘物の中でも陶磁器は最もよく生産地と生産時期が分かる遺物であり生産・流通・消費の跡をよく表している。中世においては流通網が発達し各地に、とりわけ都市部に陶磁器が行きわたっていたことがわかる。こうした商品流通を実現したのが銭の流通拡大であり、銭の使用が本格的になった時代でもある。遺跡からの銭の発掘状況を見ると12世紀後半から中国の宋銭が大量に流入し、国内での銭の鋳造を行わず大量の輸入銭で賄っていたことが分かる。また中国陶磁器の出土量も12世紀から全国規模で増えていることと併せると、この時期に宋を中心とした東アジア全域の広域システムに組み込まれていることを示している。
 また中世の人の精神世界も出土物で類推することができる。この時期の出土物から御札・人形などが館跡から発掘されており、この当時の人々が物の怪や疫病に恐れていたことが分かり、中世という社会の混迷した状況が人々の精神世界にも影響を与えていたと考察される。
(7)もう二つの日本文化
 日本列島は南北にそれゆえ自然環境が多様である。従って単一の文化では決して無い。今まで述べてきた文化と別に、北海道の漁労を中心とした「北の文化」、琉球の初期には漁労を後期には畑作を主とした「南の文化」が存在し、今までの述べてきた水田耕作を中心とした「中の文化」と位置付けられる。さらに「中の文化」と「北の文化」の中間に「北のボカシの地域」、「中の文化」と「南の文化」の中間に「南のボカシの地域」が存在するなど多様性に富んでいることも留意する必要がある。
4.考古学の課題
 ここまで考古学は当時の社会の姿を映し出すのに大きく貢献してすることが分かったが一方で課題が無いわけではない。私が考える課題として3点挙げてみた。一つ目は、2000年に起こった旧石器の捏造事件が発覚し、学界のみならず社会全体に大きな影響を与えた。事件は一人の人物の功名心にかられた捏造事件ではあるが、問題の本質を一人の人物の犯罪として矮小化するのでなく、学会全体としてのチェック機能や検証機能が十分機能していたか、また過去に実績のある人物の発言や行為を無批判で受け入れてしまう風土が無かったか、について検証すべき事項と思われる。二つ目は発掘行為と遺跡保存の両立である。高松塚古墳壁画について発掘当初は極彩色の壁画であったものが、発掘により外気に触れることでカビが表面を覆い、貴重な壁画の損傷に至ってしまったことである。解決には発掘技術や技法のさらなる向上と、発掘後の保存に関しての手順やノウハウの蓄積が求められる。三つ目は発掘と国土開発との兼ね合いである。道路や建物建設予定地に遺跡あった場合の遺跡調査を優先するのか開発を優先するのか。開発を優先するあまり遺跡を破壊しないよう開発と学術調査間のバランスの取れたコンセンサスを設ける必要があると思われる。

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