存在意義とセックス
こんばんは。
他人に生きる意味を付与するな
こちら、私の座右の銘でございます。
ところで、「生きる意味」を考えたことがある人は多いんでしょうか。
私は他人に依存しがちなので、依存先が無くなる度に自分の存在価値が分からなくなり、どん底まで落ちたりします。
生きる意味を与えるのに一番手っ取り早い存在って、他人なんですよね。
簡単に言えば家族や恋人とか。もっと余裕がないときはセフレやワンナイトでもいいんですよ。
その場限りでも自分を求めてくれている存在って、もの凄く空虚なのですが、ある程度は存在意義になれてしまうんです。
私も一時期、セックスを自分の価値を測るために使っていました。
ご飯を食べて解散すれば良いところを、あの手この手で相手をその気にさせてベッドまで持ち込む。そうする必要がないのに私を抱いてくれる、その事実が存在意義を成していると思っていました。
今思えばあまりにもお粗末で浅はかで、本当にどうしようもないですけど。
いつから「生きる意味」なんてことを考え始めたのか忘れたけど、ここ何年か毎日のようにそれを考え続けた結果、とある結論に辿り着きました。
そもそも生きている意味なんて初めから存在しなくて、意味がないことに慣れればそっちの方が楽なんだろうな。
そして、一度無理やりにでも意味を与えてしまったら二度と意味がない状態に耐えられない、そんな最悪の仕組みになっているのかも、と。
仮に意味を見出すのであれば、それは死ぬまで絶対に手に入らなくて確固たる何かである必要があって、もっと言えば「生きる意味」なんて考える余地のないまま死ぬのが理想なんだろうな、と思いました。
一度手に入れてしまった何かを失うことは、失った時の哀しみよりも「失った何か」を再度手に入れるまで模索し続けなければならない苦しみの方が、よっぽど厄介な訳です。
クソビッチを経験した結果、辿り着いた答えがニヒリズム(虚無主義)だったのはかなりダサいんですけど、でもこれが今の私の答えな気がします。
じゃあ「生きる意味」なんて存在していなかった、と気がついた今、もうそれを探さないのか。
いいえ、探します。
残念なことに、私は幾度となく何かに生きる意味を与えてしまったので、今更それがなくなってしまうと耐えられないのです。
そんなものは存在しないと判っていながら、それっぽい何かを探し続けるんです。
もはや、「生きる意味を探すこと」が「生きる意味」みたいな最悪のループに入っているような気もして、一番惨めな結果に落ち着いたかも知れません。
他人に生きる意味を付与するな
経験上、他人に生きる意味を与えてもかなりの確率で数年内に失うのでこれは座右の銘のまま、私は今日も明日も、死ぬまで存在しない何かを探し続けるんです。
いい感じのものが見つかったら、その時また共有するとします。
新年度も始まり環境が変わる季節ですが、皆様が今夜もあったかい布団ですやすや眠れることを願っています。
おやすみなさい。