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私のなかの少年
女の子は、すぐに大人なおませちゃんになってしまう。自分だってその例に漏れずで、一定の年齢になると人並みのおませちゃんになった。
けれども、私の幼少時代はといえば、季節を問わず真っ黒に日焼けした肌と、生傷がつねに残る膝、このふたつは外さない、クラスの男子に負けないくらいの少年っぷりだった。リカちゃんやバービーちゃんを道具にしたお人形遊びも嫌いじゃなかったけれど、おうちの中で遊ぶことの数倍、外で遊ぶことが好きで。
外で遊ぶことには、事欠かなかった。
夏休みは、朝っぱらから虫かごと虫とり網をかついで、マンションの木の幹に張り付くすべてのセミというセミを捕まえては、友達ときゃっきゃと騒ぎ、夕方になれば鬼ごっこに明け暮れた。季節めぐって冬はといば、近所の貸家の庭にこっそり潜り込み、秘密基地だといって敵との架空の攻防をした。それで夕方になれば、6時の門限に気づかないくらいサッカーに夢中になった(そしてだいたいの場合は母親にこっぴどく叱られる)。
体ひとつあるだけで、遊び方なんて無限大に広がるってもんだった。
けれども、私もいつしか女の子のグループに組みこまれるようになってしまって、いつからか、すまし顔、男子なんてバカよねえと冷ややかな目線を送る女子の一員となった。
けれども、実はその一方で、男の子たちが肩を組んで、バカバカしいことを言いながら歩く、その猥雑さというか軽やかな雰囲気を羨ましいなあと思っていた。私もあの群衆に混ざって歩きたいなーーと思うこと、しばしば。
そんな、みずからか環境によってか、あるいはどちらからでもなく思春期の時代の多くの女子が蓋してしまったその少年らしさをー私は”少年くん”と呼んでいるのだけれどー私はどう扱ったらよいのかわからず手のひらの中で持て余していた。
少年くん、こいつは確かに、私の中に常にいて、けれども大抵の場合はなりを潜めている。少年くんは、外に出る機会をつねにうかがっているけれども、なかなかそれはやってこない。(日常生活の中では、「男の人」か「お母さん」が出てくることが多い。そして、逆に「お父さん」と「少女ちゃん」の感覚は結構薄い。)
「少年くん」が遠慮せずに出てこれるかどうか、これが私の人生では結構大切なことだということを知るようになる。
なぜなら少年くんが元気なとき、わかりやすいくらいに私も元気になるような気がしていて。
例えば、川で遊んでるとき。例えば人と相撲とってるとき。例えば草野球してるとき。そういえばバスケットしてるときも、そうだった。それと、お互いにべったべたに信頼している人たちとバカな軽口言い合っているときなんかも、とっても気持ちいいね。そういうときに、この少年は、超元気。だとか壁にもたれて胡坐をかくと、なぜか少年は元気になる。
性別云々にかかわりなく、内側に少年がいて、それといっつも遊んでいるような人たちが私は大好きなんだなと思う。そして、私はそれと響きあいたい。
だから、これから生きていく中で、私は私の少年をどれくらい元気にさせてあげられるか、これをひとつの軸にして過ごしていきたいなあと。
君らといると、いつも少年になれるよ。
できることなら。
一人でなくて、おんなじように内側に少年を飼っているような人たちと過ごしたいなと思う。
その真っ黒に日焼けして膝に生傷作りっぱなしの少年性をお互いに響かせあいながら過ごせること、これって結構幸せなことだよなあと思ったりするのだ。