「じりつ」についてのアレやコレ
障害や疾患を持ちながら働いている人や一人暮らしをしている人を、私は凄いなと思い、尊敬する。
その人たちが働くこと、一人で生活すること…いわゆる「自立している姿」に、疾患や障害のある子の親御さん、若い当事者さんは励まされて勇気をもらうことだろう。
「私ができるのだから、努力すればあなたもできるよ」と言われるとやる気が出てくるかもしれない。
彼らは本当にたくさんの努力をして現在の状況にある。
そしてその状態が続くよう更に努力を続けているし、体調の悪い日があっても折り合いをつけながらその状態を維持しようとしている。
彼らの言葉に耳を傾けることはとても大切で、見習う点はたくさんあるに違いない。
では、私は?
私はこれまでに就職したことがなければ、一人暮らしをしたこともない。
一般的に見れば、自立したことのない人間だ。
自立したかった
ところでこの「自立」は何を意味しているのだろう。
親御さんは将来子どもが「自立」できるように育んでいるのだろう。
でもその意味合いをはっきり理解している人は少ないと思う。
かく言う私の知識もあいまいだ。
いや一応、社会福祉を学んだ身であるから知ってはいる。
福祉サービスの中には、障害者のための「自立支援サービス」というものがあるくらいで、「自立」することは生きて行く上で必要なことなのだ。
そんな「自立」を福祉分野では
「身体的自立」「経済的自立」「精神的自立」
の3つに分けることができる…らしい。
…らしいってなんやねん。
いやどうやら、4つ目の自立があるとかないとか言う話があるそうで。
自分の中にない知識を伝えるわけにもいかないし、間違っていたら怖い。
それにここで言いたいのはそんなに細かいことでもない。
だから上記の3つくらいかなと認識してもらえると助かります、はい。
なんて言うかな。
私の中で「自立」はずっとずっと、圧倒的に経済的な自立を意味していた。
+身体的自立、といった認識だ。
自分で稼ぎ、誰かに頼らずとも自分の力(収入)で生活すること。
どこかに外出したいといった場面で、誰かに頼らずとも一人で行動できること。
社会的に独り立ちしていると言い換えることができるかもしれない。
それが自立だと思っていた。
そして社会が求める、あるべき「自立」はこれを指しているし、一般的に広まっている自立もそういう意味合いが強いのではないかと思う。
親が子どもたちに「自立して欲しい」そう願うときの自立も、(そこに精神的な強さなどが含まれているにせよ)おそらくこうした考えが色濃いのではないだろうか。
私も可能であれば自立したかった。
誰の力を借りることなく、就職してお金を稼いで、初めての給料で親に小さなケーキでも買って、自分にも何かご褒美を買い、ときには旅行して、コツコツ貯金して、一人暮らしをしてみちゃったり。
もちろんその全ての決定権は私にある。
そんな風に、若い頃は憧れてみたりもした。
社会の一員として浸透…?
ところで、私が20歳代になる頃から、社会の中で少しずつ障害者(ここに内部障害者が含まれていたかは微妙だが)に対しての意識が変わって行った。
私が子どもの頃というのは、疾患や障害のある子や人たちが社会へ出ている姿を目にする機会はそうそうなかった。
例えば私が小さい頃は、車いすに乗った子どもが出歩くこと自体珍しかったのか、まじまじと見つめられたものだ。
今は大きめのショッピングセンターに行けば2~3人の車いす利用者を見かけるし、高齢者だけでなく若い人も多い。
電動車いすでスイスイ一人で買い物している人を見かけることもある。
だから今の子どもたちやその親世代は、車いすを見かけても特に動じることはない。「見ちゃだめよ」なんていう人に出会うことはもう何年も(私は)ない。
これは「車いす」に対する意識が変化して、「そういうものに乗る人が世の中にいる」とごく当たり前に認識されている証であると思っている。
(ただし車いすの人たちが暮らしやすい状況にあるかといえば、それはまた別の話だ)
少なくとも、社会はこうした障害者を社会の一員だとして認識し始めているのだろう。
では、一人で身動きが取れず生活を築くことができない…生きて行くことができない者がその「社会の一員」として受け入れられているだろうか。
それは微妙なところだと、個人的には感じている。
社会の一員=働く?
さて、あなたは「ノーマライゼーション」という言葉を聞いたことはあるだろうか。
ノーマライゼーションは簡単に言えば
障害・疾患の有無や年齢・性別の違いに関係なく、人は等しく社会活動へ参加し、生活が送れるべきである
みたいな考え方(ふんわりだな、おい)。
そのために、例えば施設のバリアフリー化や病・障害者に対する生活支援、就労支援などが行われるようになった。
また、世間にはいろんな人(マイノリティ)がいるんだよと子どもたちに対して早くから教育を行うことも、ノーマライゼーションの実現には欠かせないだろう。
現在の子どもたちへの教育がどんなものか、正直なところ私にはわからない。でも、見聞きしている限りマイノリティを「マイノリティだ」と学んでいる感じがして若干危惧している。それではマイノリティが特別なままになってしまう。マイノリティとマジョリティはちょっと違うだけで「同じ人間」なのだという感覚が伝えられたら良いのになと思う。
☆
ノーマライゼーションの実現のために日本が大きく打ち出したのは「障害者雇用促進法」だ。
これは
障害者が自立した安定的な生活を送るために働く環境を整える
というものだ。
疾患や障害があっても一般枠で就職できる人はもちろんいるだろう。
けれど一般枠ではどうしても難しい人はいるし、そういう人たちがいくら働きたいと願っても、そもそもの就職口がなければ意味はない。
この法律はそうした人たちに向けての就職口をきちんと設けて、社会の一員として働くことができるようにしましょうというものだ。
これにより、企業側が一定割合以上の障害者を雇用する義務が生まれた。
この雇用する義務が達成できていない企業が多いといった話題を報道等で聞くことはあるが、今はそこに注目したいのではない。
この法律の誕生によって、確かに自分の能力を発揮し、きちんと働くことができるようになった病・障害者は増えただろう。
ただ一方で、働かない(働けない)人たちの存在は置いてきぼりとなっているように感じている。
メディアは「障害者であっても働き、自立し生活する人たちのこと」を取り上げる機会が増えた。
そうして働く人たちを称賛する(これ自体に不満はない。本人が努力していることだもの、たくさん讃えられて良いと思っている。ただ何というか、称賛されているのを見るほどに、まだまだ働く障害者が一般的ではないんだなぁとも思う)。
そして番組はたいてい、そうした彼らを受け入れようと、受け入れられる社会にしようと訴えて終わるのだ。
障害や疾患があっても懸命に働く。
彼らが一般の人と同じように生活(自立)するために。
――個人的に、日本ではこの点に強く焦点が当たってしまったのではないのかと考えている。
私の思うに社会は、働く人がいる一方で、働けない疾患や障害のある人たちの存在を知らしめることをしてこなかった。
そういう人たちは「社会の一員」から切り離されてしまったのではないだろうか。
社会の一員になるためのハードル
車いすで出歩く人は増えている。みんなそれに馴染みつつある。
これもノーマライゼーションの一つと言えるかもしれない。
でも、人々の目は厳しい。
これもまた、あくまでも私の感じるところに過ぎないけれど。
社会参加する疾患や障害のある人たちは、一般の(いわゆる健康な)人と同じ水準まで努力することが求められているのではないだろうか。
誰もが生きやすい社会を形成するのではなく、疾患や障害のある人たちが社会の、マジョリティの位置に追いつくために、必死に苦労している…そんな気がしている。
もちろんバリアフリー化や先ほどの障害者雇用促進法、多くの自立支援サービスによって社会からの歩み寄り…というか、枠組みは提示されつつある。
ただそうした仕組みに加わることができるのは、その枠組みをきちんと活用できる水準まで到達することのできたある種の「選ばれし者」なのだ。
そしてその選ばれし者も、そこの枠からこぼれ落ちないよう努力し続けなければいけない。
☆
車いすで外出する人は増えた。
自分で車いすを漕げる人、介助者がいる人に関して、社会は比較的当たり前のものとして認識している。
一方で見たことのない子ども用の車いすやバギー、酸素を積んで車いすを利用する人などはいまだ、少々不躾とも思える眼差しを向けられることが少なくない。
これは自分が認識している車いすや障害(疾患)のある人から逸脱しており、不思議(あるいは変)に見えてそのことに対する純粋な警戒感(や好奇心)が勝っているのだろうと個人的には考えている。
タピオカドリンクを飲んだことのない人が、タピオカドリンクがどんな食感や味わいなのかわからなくて困惑する、といったレベルのものだと思うようにしている。
それは違うよとおっしゃる人はいるだろう。
でもそんな気持ちの方が楽かなと思っている。
私たちは美味しいのだ。
…お口に合わない人もいるだろうけどね。
ま、それはさて置き。
いわゆる一人で(あるいは介助者だけで)なんとかなりそうにない、手を貸した方が良さげな人に対する視線は厳しい。
バリアフリーで階段がないのだから、人に頼ることなく本人(あるいは介助者)のみでできて当たり前。
枠組みはできているのだ。それを利用できて当たり前ではないか。そうでなければ自立したことにはならない、社会参加しているとはいえない。
そのような意識が社会全体のどこかに存在しているのではないだろうか。
柔軟だとか、臨機応変という発想が少し乏しいように感じる。
だから手を貸しましょうか?とはならない。
というよりも「手伝うことの方が失礼だ」てな雰囲気のときもある。
この人は自立しようとしているのだから、手を貸すこと自体無礼に当たる、みたいな感じ(もちろん「手助け無用!」と一人で頑張ろうとする時期の人もいるけれど)。
確かに、本来的には当事者(やその介助者)だけでなんとかなるようにハード面が整っているほうが良いのだろう。
でも例えば階段ではなくスロープが設置してあっても、勾配が厳しく誰かの手が必要なときだってある。
そんなときは自立がどうのとかではなくて、単純に手を貸して欲しい。
自立は自分一人で何もかもできるだけじゃなくて、手を貸しましょうか、手を貸してくださいと言い合える社会の中で成り立つのだと私は考えている。
にもかかわらず、社会の中にある「自立」は「人に頼ることなく自分(やその家族)だけで解決できること」という意識があまりにも強いのではないか。
そんな風に40数年生きてきた中で感じているのだけれど、皆さんはどう思われるだろう。
自律(じりつ)という考え方
若い頃。
私は私なりに頑張って生きていたと思う。
でも自立しているとは言い難かった。
実家から出ることはできず、親の収入で生活し、病院等へは送迎なくして行くことができない。一人で何一つできない。
それを情けないと思うことは私にだってあった。
それでも自分でどうにかできることではなかった。
――いや、そんなのは言い訳だ。
もしかしたら私の努力不足なのかもしれない、そんな風に考えたこともあった。私はどこかで自立できない自分に恥ずかしさを感じていた。
転機は通信制大学のスクーリングだった。
講義内容など詳細は忘れてしまったが、ある講義で「障害者の自立について」という話題が出たのだ。
例えば自分で動きが取れない人、家から出られない人、自分の意思を伝えることが難しい人たち。
そうした人たちは自立できない人々か。
そういう話の流れの中、「そんなことはない」と講師が言った。
「自分で立つことはできなくても、自分を律して生きている人は『自律』している」と。
自律なんて、自律神経の話でしか聞いたことがなかった。
なんですか自律って。
「自律」は「精神的自立」に近いかもしれない。
ただ精神的自立は個人の意思決定に重きを置いていると個人的には認識しており、自律とは若干の差がある。
講師による話を私なりに解釈した結果、「自律」は「それぞれが生きて行く上で必要な行動や意思表示ができる」ことを指す。
例えば
〇お金の管理ができる。
→生きて行く上で金銭管理ができることは重要。
〇服用している薬の管理ができる。
→体調コントロールに不可欠な薬を自らが管理できるなんて素晴らしい。
〇今日のスケジュールを立てることができる。
→一日をどう生きるかを自分で判断できている。
〇明日の服装を決める。
→未来を考える力を持つ。
〇喜怒哀楽を示す。
→言葉が話せない場合でも、痛いときに泣く・怒る、楽しいことや好きなことの前では笑う等、自分の感情を相手に伝えることができる。
などなど。
要するに(体調不良など何らかのトラブルがあったとしても)一日いちにちを繰り返すことができていれば良いのだ。
それぞれにとっての「当たり前の日常」を重ねることが大切なのだ。
じりつ は大切だけど、全てじゃない。
その人にとって設定しているミッション(それが働くことである人もいれば、先述したようなあれこれや些細なことの人もいるだろう)が、達成できればそれもまた自律だ。
いやもう、なんなら達成できなくても良い。
その気持ちがあれば良いことに私はしちゃってる。
きっと講師もびっくりするような私的解釈だろう。
言葉にするのは難しいけど。
「自立」を求められる社会で、自立することは確かに大切だ。
自立したい(させたい)と願い、目指して、その気持ちを糧にぐんと飛躍することだってあると思う。
ただ、自立というその言葉にとらわれて自分を情けなく悲しく感じて、身動きが取れなくなるくらい苦しい想いを抱かなくて良いと私は思うのだ。
働くこと、一人暮らしをすること、いわゆる独り立ちをすることが自立の全てじゃない。そうでなければ「社会の一員」になれないなんて決まりはない。
…あーもう、自立だ自律だややこしいね(笑)。
自立も自律も発音は「じりつ」だ。
正直なところ、自立だろうが自律だろうが構いはしない。
でも私が「自律」という言葉に救われたのも事実だ。
だから紹介するつもりで自律について書いてみた。
じりつ の本質がどこにあるかなんて難しいことは知らない。
ただ思う。
じりつすること は大切だけど、それが全てじゃない。
もし今「じりつせねば」とがんじがらめになっている人がいれば、それほど追い込まれなくて良いよと伝えたい。
だって私は自立できなかったけど生き続けているし、自分を社会の一員のはしくれ程度ではあると思っているから。