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戻れない、かもしれないけど。

子どもの頃から移動の際には車いすを利用している私、だからと言って車いすを使うことに、全く抵抗がなかったわけではない。

だって私は歩けるのだ。
たくさん歩けないだけで、歩けるのだ。

でも例えば学校生活の中で、教室移動のとき短い休み時間内で他の子たちと同じペースで歩くことは無理だ。
そんなことをすればたちまち息が上がり、授業どころではない。下手をすれば早退に繋がる。

そして学校という場はとても広い。

やれ体育館へ移動、音楽室へ移動、視聴覚室へ移動…一つの教室でじっとしていることはあまりない。

私にできる「歩く」ことと言えば、教室内でごそごそ動くことと、教室から近い距離にあるトイレに行くことくらいだった。

ゆっくりしか行動できない私、休み時間10分以内で速やかにトイレへ行き教室へ戻るという行為が気持ちを慌てさせた。
しかも当時は和式トイレしかなく、踏ん張る力が弱かった私には辛かった。
40代になった今でもたまに、トイレに行っている間に他の子たちに置いて行かれた、という夢を見る有様だ。

車いすを使うことが、私の場合は避けられなかった。

付け加えておくと、車いすを使うとき私は先生たち大人に車いすを押してもらっていた(中学以降は友だちに頼むこともあった)。

「自分で車いすを動かせないの?」
と聞かれることも少なくないが、自分で車いすのハンドリム(車いすのタイヤの外側にあるリング)を漕ぐにはそれなりに腕力が必要だ。
体を動かすことは酸素を使うことであり、自分で車いすを漕ぐと体力を消耗する。
正直、その体力があるならば私は歩きたい。

車いすを使うこと

当時は今よりもはるかに
車いす利用=足に障害があって歩けない人
だった。

学校の子たちはそれでも、だんだんと私という存在が当たり前となっていく。
子どもたちというのはとても柔軟にできていると感じていて、そういう子もいるのだなとスッと馴染むようだ。

一方で、小さな子ゆえの残酷さというか、素直さというか。それとも車いすに乗る私が少し羨ましく見えたのかもしれない。

「ぱきらちゃんって、歩きたいときだけ歩いててずるいよね」
というようなことを言われたことがある。
とても、とてもショックだった。

けれど確かに、そのように見えた部分はあるだろう。
教室移動のときは(時間の制約もあるので)車いすを使う。
けれど例えば体育館での授業中、「このくらいなら歩けるかな」と歩くとする。
体育館は広いのに歩けるの?
じゃあ教室移動も歩けるでしょ?
…となってもおかしくない。
その微妙な差は子どもたちにはわからない。

歩けるときはなるべく歩こうと思ってする自分の行動が、人からはずるく見えてしまう。
このギャップに、それなりに苦しんだ。

…まあなんにせよ、子どもたちは時間の経過と共に私という存在をひとまず受け入れるのだ。

でも、外出すればそれがない。

「あらあの子…」みたいな視線が嫌だなと感じたこともある。
私が子ども時代、車いすの人がウロウロするのはもちろん、子どもが車いすに乗っているのは更に珍しかったと思う。
年齢と共に開き直りもあるからなおさらそう感じるのかもしれないけれど、当時は今よりも随分と視線が強く刺さった。
そして
「歩けるのに車いすを使うの?」と、
私ではなく母に聞いている人もいた(必ずしもそれが悪いこととは思わない。興味があるということは、場合によってはその人の理解に繋がるから)。

学校以外の外出は稀だったから、出かけるのは嬉しかった。
でも同じくらい、そういう人たちの視線が嫌で車いすを使うことに抵抗を感じていた。

だからと言って慌てて目を逸らせたり睨んでしまえば、それは私というよりも、車いすを使う人たち全体のイメージを損なう気がして、いつもにこにこしているよう心がけた。
それに私は何も悪いことをしていなくて、本当は何もずるくなくて、私の生活を送っているだけなのだから。

そして、にこにこしていれば、大抵の人は悪意を持って向かっては来ない。
こういう子もいるのねと思うのか、かわいそうだと感じているのかその胸中はわからないけど、とにかくエレベーターのボタンを押してくれるくらいには親切になる。

にこにこすること、これは私が生きていく上での知恵だった。

一方で、私は他の車いすユーザーからはどう見えただろうかと思っていたし、今もときどき考える。

彼らにとって車いすは生活の必需品であり相棒でもあるだろう。
いやもちろん、私にとっても相棒に違いはないし大事に扱っている。
それでも私には「車いす嫌だな」と思ったら乗らないという選択肢が(後々しんどくなるけれど)ある。
でも彼らにその選択肢はないし、正直嫌もへったくれもあるか、という感じだろう。
だから昔の、うじうじ悩む私の姿にイライラするかもしれない、そんな気がしている。

それでも言わせて欲しい。
私は車いすを使うことになんの抵抗もないわけではなかった。

だって私は…あの頃、とてもゆっくりだけど、今よりはずっと歩けたから。

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どうしてこんなことを書いているかと言えば、先天性心疾患患者の多くが年齢と共にその体力が落ち、いろんな「助け」を必要としていくからだ。

自力で少し無理してでも、マイペースででも、歩けるうちは良い。
でも歩ける距離がだんだんと短くなり、歩けば心臓に負担がかかり始め、歩くことがマイナスに作用し始める。
そうなると言われてしまうのだ。
「車いすを使うようにしましょう」と。
「車いすという助けを借りましょう」と。

それを聞いたときはたぶん、悔しいし、悲しいし、自分の衰えを恨むだろう。
自分の中で「できていたこと」が失われて行くという感覚は、とても辛くて、怖い。

そして多くの人たちは車いすを使うもんかと突っぱねる。

「車いすを使うの、嫌?」
と、そろそろ歩くのが辛そう子に聞いたことがあった。

そしたら言うのだ。
「嫌というよりも…もう戻れなくなるやん」

わかる。

小さな子が一時的に車いすを利用するのとはわけが違う。
大きな手術でもして劇的に回復するならいざ知らず、おそらく自分が一度でも車いすを使うようになれば…これまでのように歩けなくなる。
もう、歩いていた頃の自分には戻れない。
それが怖い。

私は子どもの頃から車いすを使っていて、ある意味車いすに慣れている。
でも、その車いすを使う頻度が上がっていくとき、何とも言えないガッカリ感がある。
「前はこのくらい歩けてたのにな」って。
私でこうなのだ。
これまでなんとかかんとか自力で歩いていた人たちにとって車いすを使うことはとてもハードルの高いことだ。

それでもね。

それでも、車いすを使えばやっぱり体が楽になるのは事実なんだよね。

車いすを使うと、自分の体力をあまり削らないで済む。
何かイベントや楽しいことのために外出したとして、その目的地に着いてからきちんと「目的」に集中することができるのだ。
そしてその岐路でも、自宅に帰りつくまでに体力を消耗しきってしまうことが少なくなる。

明日の自分のために、体力の温存ができるようになる。

だから、もしあなたが車いすを勧められたとして。
確かにもう元には戻れないかもしれない。
でも、車いすを使うことは甘えでもなければ弱さの証でもなくて、新しいアイテムを手に入れた!って感覚になってもらえたらなと私は思う。
車いすを使うことで行動範囲が広がることだってある。
そう考えを少しでも切り替えることができたら、嬉しい。

酸素を導入すること

話は変わって、私は在宅酸素を利用している。

結婚して約2年後くらいから始めただろうか。

最初の頃は、ひとまず夜間、就寝時のみ取り入れようということになった。

それから紆余曲折あり、現在は安静時(就寝時)に酸素を吸うのはやめて、負荷時のみ使用している。
また、外出先で歩く場合は酸素ボンベをコロコロと引き連れている。

実は私、在宅酸素の話が出たとき、正直
「先生何言ってんの?」
くらいの気持ちだった。

だってサチュレーションが低いなんてこれまでもそうだったのだから、今更酸素をして何になるのかという気持ちだったのだ。

サチュレーションというのは「酸素飽和度」とも呼ばれる、血中の酸素量をパーセンテージで評価するものである。
いわゆる健康体ならばサチュレーションは96~100%ある。92%くらいになるとかなり強い息苦しさを感じるらしいが、多少の個人差はある。

私は、サチュレーションが低くても動けているという自負があった。
車いすは使っている。
それでもちょっとしたスーパーでなら歩くことができていたし、家の中の家事で息苦しいと思ったことはない。
いや、息苦しくても酸素吸入が必要なレベルとは感じていなかった。

それに、私よりもサチュレーションが低い人だって周りにいたし、その人たちも酸素なしで動いている人が多かった。

「みんな動けてるのに、なんで私が」
そう思った。

それでも必要だと言われ、しぶしぶ開始した。

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医師からは、「酸素を吸ったからと言ってサチュレーションが上げるわけでない」ということを伝えられていた。

私が酸素を吸うのは、サチュレーションの上昇を目的としているのではなく、
「下がったサチュレーションができるだけ早く元の数値に回復する手助けをする」
のが目的のようだ。

例えば私は安静時83%くらいのサチュレーションだ。
負荷(洗濯物を干す等の家事全般や入浴など)が加わると75%を下回り、70%を割ることもある(ちなみにこの数字は個人個人で異なるので、一つの参考資料程度として捉えて欲しい)。

この下がったサチュレーションを元の80%台に回復させるのに、通常15分かかっていたのが、酸素を吸うことで10分に縮むかもしれない。
この5分の差は大きい。
サチュレーションが下がれば当然全身への酸素の循環が悪くなる。となれば体に負担がかかる。
塵も積もればなんとやら、酸素を吸う方が断然心臓のためにも、他の臓器のためにも良い。
そして、今後のQOL向上のためにも。

「もう、良いことずくめじゃん!」
くらいの説得力はある。

そんなこんなで始めた酸素生活。

始めるときに思った。
もう、酸素なしではいられなくなるんだな。
戻れなくなるんだな。
そう感じた。

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家での酸素ではなく、外出のときに酸素ボンベを使うようになって、酸素の力を少し実感した。

例えばあまり大きくない本屋、自分で歩いてうろうろするとして。
年齢とともに体力が落ちているからか、うろうろしているとだんだんお腹が痛くなってきて(私はうっ血しやすいそうだ)、本をわくわく見て回るという時間がどんどん短くなっていた。

それが酸素ボンベをコロコロさせて歩くと、割とのんびり本を見て回ることができるようになった。
サチュレーションが上がるのではない。
私の場合、酸素を吸っていてもサチュレーション下がる。でも、早く回復させるのだろう。
家に帰ってからのぐったり感も少し減った。

初めて酸素の力を感じた。

酸素、吸った方が良いのにな。
ときどき、そういう人を見かける。
先生からも勧められていると言っていた。

「楽になるのはわかってるんだよね。でも、吸ったらもう戻れなくなるでしょ」
その人はそう言っていた。

うん、そうだよね。
私も戻れなくなることが怖かったよ。
でも私は今、酸素吸うのも悪くないなと感じているよ。

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医師や周りの人たちから見れば
「楽になるんだから使えば良いのに」
と思うことだろう。

それは事実で、正しいことを言っている。

けれどそれらを使うということは、自分の体力低下を認めることになる。
これまでできていたことができなくなる。
使えば元の自分には戻れないかもしれない。
大人になってからいろんなものを失うと言うのは、とても怖いことだ。

今まで頑張ってきた自分が弱ったようにも思うし、そういうものを使うと「負け」のように感じる人もいるだろう。

でも。
酸素を使い始めて思うんだよね。
おお、確かに楽かも。って。

だからだと思う。
使えるものは使った方が良い、そんな気がしている。

車いすや酸素を使うことは、あなたの負けじゃないし、甘えでもない。
生き抜く上での知恵の一つだ。

そういうものを活用して、長生きして欲しい。
私はあなたに長生きして欲しい。
そして私も長生きしたい。

若い頃から酸素を利用している人からすれば、
「何言ってんだか」
というような感じかもしれない。
不快に感じた人がいたらごめんなさい。

でも、なんていうか。
酸素を使い始めてから、
「ああ、子どもの頃から車いすを使っていたおかげで、今の自分の体調が保たれていたのかもしれないな」
と思うようになったのだ。

だから言いたいと思った。
もし、車いすや酸素を使うことを勧められていて、でも嫌だなと感じている人がいたら…それは確かに嫌なことかもしれないけど、案外悪くはないかもよ、って。

(でも私、家の中での酸素はついつい吸い忘れているので偉そうに言えないんだけどね)

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ぱきら
あまり本を読んで来なかった私、いただいたサポートで本を購入し、新しい世界の扉を開けたらと考えています。どうぞよろしくお願いします!