非日常を日常の中に宿す
錆びたペアリング。
付き合っていた頃に大切にしていた指輪は黒く錆びついてた。
結婚して4年が経つ。付き合っていた頃とは変わっていく。
高揚が安堵になり、飾り気は自然体になっていく。
付き合っていた日々の非日常が、日常の中に溶けていく。
こうしたことは、すごく多い。
日々の育児に忙殺されて、子どもが生まれた瞬間の感動が薄れている。
その反面、あれだけ煩わしいと思っていた親との関係性は帰省するたびに、心強く感じている。
大切な人や物、出来事が日常の中に溶け込んで気づけなくなっていく。
その一方で、煩わしいと思っていた親の存在が一年に一度という非日常の関係性になることで、心強いと感じるようになる。
日常は、毎日が同じことの繰り返しで、出来事の結果を予測できてしまうから、当たり前だと思ってしまう。繰り返しと予測可能性が日常を作る。
だから人は、日常から離れたくなるのかもしれない。旅行やレジャーやテーマパーク、映画や小説、そうした日常では味わえないものを感じるために、日常の繰り返しから逃れるために、劇的なわかりやすい変化を求めている。
でも、非日常に赴かずとも、日常の中にある微細な変化や有り難さを見逃さないようにしたい。
日々の暮らしの中にには、変化や新しさは常にあるけれど、そうしたことは簡単にわからなくなってしまう。
窓を開けたときの寒さで季節の変化を感じたり、雨の日の雨樋をつたう雨音、土の匂い、子どもの成長、妻の髪型の変化。
微細な変化は部屋の中にすらある。
日中は蛍光灯に頼らずに自然光を取り入れるようにしている。ほんの少しの陰影の差が、目に入る情報を制限してくれて、集中できるような気がする。
陰影と同じように光や刺激の強すぎるものは、微細な変化をかき消してしまう。
社会やSNSの強い言論、わかりやすい刺激的なコンテンツによって差異を感じにくくなってしまう。
強くわかりやすいものが、無限に大量にありすぎて、日常の中にある微細な変化に気付けないなら、離れることが必要なのかもしれない。
社会の喧騒から、時間的にも物理的にも距離を置く。
あえて不便さの中に楽しみを見出してみる。コーヒーを豆からひいてみる、お茶を急須で入れる、凝った料理を作ってみる、電車や車ではなく歩いてみる。
そうした手間をかけるという行為が、社会全体の効率性や即効性という喧騒から離れさせてくれる。一人の時間、静けさ、周囲の変化、落ち着き。
それは便利と効率性が支配する日常の暮らしの中には存在しない。心の余白が生まれ、日常の中にある微細な変化に気づくことができる。
日常の中に存在する微細な変化という非日常を取り入れることができる。暮らしの中にある花鳥風月や、諸行無常、もののあはれさを感じる心を持って、日々の出来事の有り難さを忘れないようにしたい。
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