豹は虎のイロチってことで|絵を描くことで思考する #00
「虎がもう、豹になってしもてるやん!」
名古屋城本丸御殿の「竹林豹虎図」のことです。世界観、めっちゃクレイジー。それが最高だった。やあやあ、ここに狩野派あり! キンキラキン(ドヤァ)! という圧にあてられて、刹那、脳がバグを起こしかける。そのなかで得たなけなしの理性的感慨がくだんの言葉です。
徳川家康の命で、江戸期の先端技術を結集して造られたという本丸御殿。入るなり、出端で「竹林豹虎図」を見ることとなります。襖絵です。殿に招かれて尾張藩に来てみたら、「プールつきのマンション 最高の女とベッドでドン・ペリニヨン」ばりのド派手。びっくりしたでしょうね。招くほうも嬉しかっただろうな。
徳川家の過剰なホスピタリティを感じつつ、少し冷静に襖絵を眺めました。大型猫科のしなやかなからだのうねりに見入ると同時に違和感もすごい。虎かあ、などとよくよく見れば、混在しているんですよ、豹が。野生においてそんなことある? 虎と豹では生息域がかぶるエリアもありますが、生息環境が全然違います。
絵師の脳内で何がどうなってこのような構成になったんだろうと想像してみました。
絵のなかの虎と豹。互いに不自然さを感じているふうではありません。あたかも当たり前のように共存し、水を飲むものあり(虎)、子育てするものあり(豹)、戯れ合うペアあり(虎と豹)。互いが空気。調和しまくり。
当時の絵師は生きた虎や豹を見たことがなかっただろうから、まったく違う獣である「虎」と「豹」を、誤差くらいの解像度で捉えたのかもしれません。イロチ(っていうかガラチ)くらいの差で認識していたのかも。たとえば、赤い金魚を描きました。うん、いい。でもここに黒い出目金も描いといたら、さらに可愛くない? みたいなノリで、虎と豹を仲良く描いた。縦縞柄のを描きました。うん、いい。じゃあ、ここにはドット柄のを描いとくか。うん、いい。よくなった!
自分とはまったく違う世界や時代に生きた作者という個人はいったい何を考えていたのか。その感情や思考を想像してみるだけで親近感が湧いてくるし、楽しいんですよね。
(※気になって調べたところ、当時、「豹」は「虎の雌」だと考えられていたという説があるそうです。なるほど、イロチ、ガラチっていうより、性差だったのか)
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三十年ぶりに絵を習いはじめた。初回の前に簡単なアンケートを記入することになり、質問のひとつが、
だった。箇条書きで体験をいろいろ書いた。「竹林豹虎図」は最近、とりわけおもしろく感じた鑑賞体験だった。
回答しながら、確信したことがある。
なぜ、三十年ぶりに絵を描きたいと思ったのか。
「世界を切り取る自分の目」を磨くためだ。
衝撃を受けてしまう芸術(絵画だったり、音楽だったり、文章だったり、何かしらの表現)がある。そのとき私は、この人の目には世界がどう映ったのかを知りたいと思う。同じものを見た(聞いた、接した)として、私に見えなかったものを見たその人の感受性、その人の思考の道筋を知りたいと思う。
絵を見たり、本を読んだりすることが好きなのは、結句、それが、作者の思考や世界の切り取り方をなぞろうとする行為だからだ。なぞることで、自分の思考の道のつくり方も変わってくる。そのはずだった。
本をつくる仕事をしていると、「いい仕事ですね」なんて言われもするし、自分でもいい仕事だと思う。一方で、最近どんな本を読むときも、「商売の視点」「数字」「他者の評価」がその文章を純粋に楽しむ邪魔をするようになった。ありていにいって、何を読んでも前ほど楽しくなくなってしまったのだ。
年をとるに従い、できることが増え、器用に本をつくるための視点もそれなりに育ったとは思う。ただ、つまらないんだな。それが、とっても。手練になるにつれ、失うもの、鈍るものがある。自分の場合は「世界を知覚する感性」だ。
私は、純粋に世界を感じる力、世界を切り取る力を取り戻す必要がある。自分の審美眼の濁りをクリアにしたいし。ひいては自分の価値観、世界というものを取り戻したい。
絵を習うことは、目を動かすことだ。
世界をよく観察することだ。
そして手を動かすことだ。
肉体を動かすことで、脳を動かすことだ。
それゆえ、絵を習うことは、私にとってはひとつの思考実験の場になるのかもしれない。
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■ Lesson 0|2024/6/24:もくじ
(※書籍編集者の倣い性で、思考がめぐると見出しを立ててしまうクセがある。せっかくだからこれからメモしていく)
今、鳥なのか虫なのか
器用とはなにか
ジーザスと金屏風
筆洗場と喫煙所
そう言うが本当にそう思っているのか
脳は私である、手は私である
文:編集Lily