初夏の桃、そこにあなたは何を見たのか|Lilyさんの絵画レッスン #03
デッサンの初回レッスンに選ばれしモチーフ、それは桃だった。いいですねぇ、桃。まさに旬。
果物や野菜はずっと見ていると不思議なほどに“人”を感じる。美しいにしろ歪であるにしろ、何か特別な思い入れや賞嘆や愛着が湧く。特に日々の生活の中で身近な食べ物などは、そこにその人の日々や人生の、根幹の何かかがいつのまにか投影されてしまうのだろう。絵画のモチーフであれば、描く側もそうであるし、観る側もまた然り。
Lilyさんの桃の制作をオンライン画面越しに見ながら、桃などの果物が描かれたいくつかの作品を思い浮かべたり、図版を紹介したりした。カラヴァッジョ、マティス、アントニオ・ロペス、福田平八郎、小倉遊亀……。
一口に桃と言っても、その様相は画家によってだいぶ違う。そこにはやはりそれぞれの日常への視線、ひいては生(や性)/死への相対し方がにじみ出ているように感じられる。例えばカラヴァッジョの絵に漲るぎらついたそれと、福田平八郎の日常を慈しみ写し取るそれは、もう、生きている世界が違うとしか言いようがない。
ある展覧会で、ゴッホのじゃがいもの絵を見た。卓上のボウルにじゃがいもが無造作に盛られている。ゴッホらしい一つ一つ彫り込むような筆致で、じゃがいもの形態、それを形成する線や色面を決定している。その線や面への偏執的な探求の痕跡と、モチーフの朴訥とした芋のコントラストが痛々しいほどで、その切実さに見ていて涙が出てしまった。日常の何を見てもこれほどまでにのめり込んで絵画の線と色面の探求に変換せずにいられない、それは文字通り狂おしかったことだろう……。
そんなことを考えているうち、Lilyさんの制作は進んでいく。
まずは輪郭を取り、柔らかい鉛筆で大まかな明暗と色調を入れる。画用紙の凹凸に粗くのる鉛の色がだんだんと桃の毛羽立った表皮のようになってくる。ある程度描き進んだら、少し硬めの鉛筆に持ち替え、毛羽の質感を消さないようにしつつさらに明暗のトーンを加える。途中からは練りゴムも白い描画用具のように使いながら、より繊細なグレートーンで桃の立体感と色
味とを出していく。
※ この辺のやり取りはLilyさんのほうの日記にも詳しく書かれています。
そしてさらに、桃がのっている台座を描くことも大事だ。画用紙上では白い背景とそこに落ちる影。それを描くことで、急に桃の周りに空間が出現し、桃には手を入れていないのに立体感が増す。この感覚は、私も制作だけでなく他のいろいろなことでも度々意識することの一つだ。Aをよくするためにはその周縁Bに目を向ける。Aに躍起になって手を入れ続けても変わらなかったものが、Bに手を入れることで、がらりと変化する。
こうしてLilyさんの桃は完成した。それは英語でいうところの a peach ではなく、the peach だった。Lilyさんが選び、手に取り、眺め、矯めつ眇めつした桃。おそらくそのあと果物ナイフで剥いて食べるであろう桃。いいなぁ、私が桃に生まれ変わるんなら、そんな桃になりたい(どれだけ今世で徳を積めばいいんだろう?)。
爽やかな達成感に包まれながら完成したこの桃の作品、Lilyさんが画像をXにポストしたところ、なぜか成人向けコンテンツ認定されていた。えええええ??? 何を読み取ったんだ、X!
「鑑賞者によって作品は完成する」とかいう言葉もあるけれど、まさかSNSのシステムそのものがそこに声を上げてこようとは。いや、うん、果物に何かエロスが漂ったりするというのは私も同感ではあるんだ。だけどX、君はそこに“閲覧注意”にするほどの何かを読み取ったんだね? そう言われてみれば、そんな気もするような、いや、まだ茫洋としているような……。もう少し詳しく話を聞かせてくれないか?
ロンドンにしては非常に暑い(最高気温28℃だったけれど、ほとんどの民家には冷房がないので、とても暑く感じる)日の午後、氷をたっぷり入れたアイスティーのグラスもびっしょりと汗をかき、私も眩しい夏の日差しにブラインドを降ろしてから、改めてまじまじとLilyさんの桃のデッサンを眺めた。
文・絵:仙石裕美
◎ 今回のレッスンについてのLilyの日記
■ London Story:画家の生活|仙石裕美
■ 絵画レッスン交換日記:目を凝らせば、世界は甘美
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