人間というもの: 問うこと
思考することは問うことでもあるという言い方があるが、そのほとんどの問いは陳腐なものだったりする。
その中で最もつまらない問いは「何のために」である。これは考えているようでいてそうではなく思っているだけだ。
自分に利益があるかどうかの問いはもっともらしいが、自動的なものであり思考とは似て非なるものだ。車でいえば燃料を使わない惰力運転と同じだ。
「嘘か真かを問う」というのも抽象的な問いである。「嘘か真かを問うことをどう考えるか」を問わなければならないのだ。
私たちが考えることは思うことではなく思考することである。
考えることをどう考えたらいいかわかる人はそんなに多くない。私もその一人であるが、考えることは意外にも後天的な努力なのだと考えさせられる。
サボると失われる能力でもある。それは考えたからわかったことだ。
問うているだけでは思考につながるとは限らない。「今日は雨が降るだろうか?」「あの人は何を考えているだろうか?」と問うことは思考とは何の関係もない。
考えることは「不満」が要るのだ。それを満足させるために思考が始まり、真理に近づいていくことで満足が得られるという傾向をもつ。
その意味では思考は快感でもある。考えることに一度ハマるとやめられないのはそのせいだ。
「考え過ぎて苦しい」というのは考えているのではなく思っているからだ。煩悶というやつだ。
そのことがわかるのは、不満から始まった思考は満足で終わる、という経験を積めば誰だってわかる簡単なことでもある。