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哲学を実践するってなんだろう

哲学を実践に移すというのは簡単そうで難しい。
「○○はこう言った」
という知識の集積で終わってしまいがちだ。

哲学とはいったい何なんだろう。わかっているようでよくわかっていないのが哲学だ。そして、哲学者ってそもそもどんな人なんだろうかということも知っておいた方がいいように思う。

哲学者についてニーチェの本を参考にしてみた。


ニーチェは、「大衆は長いあいだ哲学者たちについて考え違いをしている」という。

それは、
「真の哲学者とは、哲学者らしくなく生きるものであり、賢くなく生きる者、何よりよりも利口でなく生きる者ではないか」
はっきり言って不器用な人だ。

賢くなく生きる者の反対は賢い者である。

ニーチェは、「賢さとは、勝てそうにない賭から身を引く手段であり、技である」という。
哲学者というのは、「いつもみずからを危険にさらし、まさに勝てそうにない賭そのものに賭けている」
危ない人でもある。

哲学者とは、賢い人だと思いがちであるがそうではないようだ。
賢い人なら周りにたくさんいるが、彼らは哲学者ではないのだ。ぼくの周りには、ぼくよりも賢い人ばかりだ。ということは、彼らは哲学者としての資質を欠いているに違いない。

哲学は何の役に立つのだろうという疑問はしばしばみられるが、そもそも哲学が、何かの役に立てることを目的としてはいないように思える。


ニーチェは、
「ある理論が、人を幸福にすることや、徳の高い人物にすることはあっても、だからといってそれを真理であると考える人はいないだろう」といったが、幸福といった利得を考えることは、哲学とは別の分野の話である。それを求めるなら、哲学よりも心理学やマーケティングを学ぶ方が有効なのだ。


哲学について、
「哲学者の使命は、価値を創造することだ」
「哲学者とは、絶えず異常なことを経験し、邪推し、望み、夢見る人のことである」」

「強靭で独立した精神をもつ人物が哲学者を作り出す」とまでニーチェはいった。

この哲学者の条件を備えている人は、想像しているよりずいぶん少ないはずだ。


どうやら哲学は、考え出された結論を実践に移すためにあるのではなく、実践の中から哲学的思考によって価値を生み出すことにあるようだ。

「強靭で独立した精神をもつ人物や哲学者を作り出すために好ましい条件を、そなえているのは、柔和で、繊細で、控えめな気立ての良い人々や、物事を手軽に処理する技に長けた人々ではなく、むしろ過酷で狡智のある人々なのだろう」とニーチェはいう。


そして、パースの言葉を借りれば、「学ぼうとする意思が前提となる第一の事柄は、自分自身の現在の信念状態に対する不満である」という。

哲学の始まりは不満から始まるのだ。満足から哲学は生まれないということになる。言いかえれば、満足するために哲学は存在するといっているようなものだ。

だからといって、不満に思い悩むことやそれを述べることが哲学ではなく、不満をどう考えるかが哲学なのだろう。
心理学でいう「○○すればこうなるはずだ」「こうなる傾向がある」といった生活で使えそうな話は、もともと帰納的推論という哲学分野から生まれたものだ。
哲学は、「これが何の役に立つだろう」と有用性を求めることのように想像するが、そうではなく、事実を学び取ろうとしているように思える。

だからこそ、ぼくの話は役に立たないのだろうと気づかされる。

哲学に対する意見がたくさんある中で、哲学を実践するとは、考えることを考えるということを一つ認めてもいいのではないだろうか。

今日の知恵は、
「哲学者に賢さはいらない」
「現在に不満があるなら哲学を学ぶべし」
「哲学の実践は考えることを考えることである」
「哲学で価値を創造してみるべし」
こんなところか。
参考文献:ニーチェ:善悪の彼岸 光文社古典新訳文庫
    パース:連続性の哲学 岩波文庫