人間というものー心が心について考える
最近はすっかりnoteへの投稿が滞っている。新しい興味が増してしまったせいだ。
心を満足させるには刺激が栄養だということがよくわかる。
これまで個人的な心の制御についていろいろ考えてきたけれど、人間の心は心を制御するために考えることがある。そして、その考え方が心を制御不能にすることもあるようだ。
「自分は特別である」という心理傾向を奇妙な使い方をすることで、自分だけでなく周囲を巻き込むこともある。「あの人はちょっと…」という警戒心を生むのだ。
そういった人たちの態度の特徴は「自分にとって都合の良い見方」をしているようだ。
仕事に対する態度を例にとるとわかりやすい。
○家族重視
○顧客満足重視
○上司からの評価を重視
○同僚からの評価を重視
○自分重視
など誰に視点を置くかで人間を評価される。
当然ながら利己的な態度が嫌われることは理解できるはずだ。利己的な遺伝子の働きは他者の利己的な遺伝子の働きを許容しないのだ。
〇〇思想、〇〇主義といった考え方の集まりにもそれは当てはまる。彼らは、利己的な遺伝子から見れば、敵の敵は味方といった集まりのことでもある。彼らが何を重視するかによって評価はわかれる。
ここ最近、政治について考えさせられた。
特に「左翼って何?」ということだ。よく耳にするがよくわからない。何をしたいのかもよくわからない。わかったのは、左翼=インテリ=リベラリストだということだ。
しかし、彼らの思想がどんな世界を構築するのかは不明だ。
選民意識から生まれた利己的な遺伝子を満足させるだけの稚拙な理想になっているようにも思える。
思想は、他者の利己的な遺伝子をも満足させることができるか、それとも、利己的な遺伝子が生み出した個人的な理想像なのかに大別される。
当然、後者は受け入れ難い思想であり、その思想は、その持ち主の利己的な遺伝子を満足させるかもしれないが、その追求は独裁的になるに違いない。
思想は心を超えられないのではないか。心を越えることが可能なのは思考ではないだろうか。
思想が頂点にあるように思われがちだが、現実は心>思考>思想ではないだろうか。
心が不満を感じ、思考によって満足を求め、それらの普遍的な答えの集りが思想となるべきではないだろうか。
「自分らは頭が良い」と思っている人たちの生み出した思想など大した役には立たない。他人の知識を盗んで更新できない思想は有害でもある。それは歴史が示している。
それなら可謬主義者たちが生み出す現実こそが思想に値するのではないだろうか。いつも人間は間違えるからだ。それを修正しつつ普遍的な世界を構築する方が人間らしく生きられるはずだ。
最近noteへの投稿をサボってこんなことを考えている。