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人間の発達の条件について考えてみた

人間発達学という学問分野では、人が成長する条件には3つの考え方があると紹介している。
○遺伝による発達
○環境による発達
○環境と遺伝の両方による発達

実際はどうなのだろうか。

すこし考えてみた。


直感的には、環境の影響だともいえるし、遺伝と環境の両方だともいえる。


「群盲が象をなでる」ように、一人の人間の人生から見えるものには限りがある。その中で経験できることは部分的で、感じることはそれぞれ違い、当然、主張も違う。


遺伝による発達には、環境、特に、悪い環境がないようにしないといけない。環境は遺伝的な発達を妨げる可能性があるからだ。
日向に咲く花を日陰にもっていくのはダメなのだ。


環境による発達に関しては、教育関連の人によく信じられている。教育者がきちんと教えてあげないと子供達は…みたいな感じで使われる。


しかし、いくら環境を整えてみても遺伝的に問題があれば、健常な発達は望めないように思う。
高山植物を平地にもってきて育てようとしても、長くは生きられない。環境を整えたとしても乗り越えることは至難の技だ。たとえある程度育ったとしても、手入れを怠ると、途端にサヨナラしてしまう。


環境と遺伝の両方という考え方が一番しっくりくる考え方のように思えるが、後出しジャンケンの問題がある。

ぼくは、環境も遺伝も両方大切だと思うが、その両方を満たすことは難しいのではないかと考えている。


教育者の言う「教育」は、とても大切だとは思うが、果たして、教育者を選べるか?理想の教育は?その教育者は大丈夫ですか?となりはしないだろうか。

ぼくは、趣味の油絵の師匠は6回変えている。自分で教育者を選んだのだ。選べる環境にあるからだ。条件は、「ぼくよりもやる気のある人」である。たったこれだけを満たすだけでも、探し出すのはかなり難しい。たまたまに頼っていたのでは、遺伝は凡庸なまま生きてしまうだろう。環境を変えようとする力そのものが遺伝なのか。


人間の発達には遺伝だというのなら、その遺伝子の優劣や可能性は誰が測るのか、それは、本当に可能なのかという問題が生まれる。


一番は、環境と遺伝の両方といいたいが、これは性善説に基づかないとならない。性悪説に基づくと、劣悪といわれる環境に置かれた遺伝子から何が育つのだろう。


ぼくは、人間の発達に重要なのは、環境と遺伝と、「刺激と反応」に促された人間の努力ではないかと思う。


動物行動学のコンラート.ローレンツは、
「後天的なものも先天的である」
と述べた。


努力や環境で得たものは、後天的なものだと思えるが、先天的にその種はあったんだという考え方だ。

ホメオスタシスの働きや壊れたところを他が代償する脳の「可塑性」という機能から考えても納得することができる。


ここからいえるのは、環境に甘んじることでも遺伝に甘んじることでもない。変化する、または、変化させられるということではないだろうか。


人間の発達、言いかえれば、人間の未来なんてどうなるか全くわかりはしないということだ。


このことが真実だとしたら、人間には「生きる目的」が設定されているのではなく、「努力する」ということが生きる目的になりはしないだろうか。


今日の知恵は、

「とりあえず、目の前にある課題に向かって努力するべし」
ということにしておこう。最も簡単だが最も難しい知恵だ。
おわります。