木に括られた小象4
それは、もう何時だったかわからないよ・・・・。
多分、中学校一年生くらいからだ。
気が付けば、おれは幻覚を見たり、金縛りにあったりして沢山、たくさん疲れてしまって、よく学校の午後は保健室のベッドでうなされる日々が続いた。
酷いときは担任の先生などの車で家まで送ってもらったほどだ。
おれは無理矢理に学級委員をやらされて緊張の極限までに立たされて詰られたり、教師からの激しい体罰(体をほうきの柄や鉄パイプで叩かれる)を受けたり、山のように意図しない文章を書かされる様な責め苦を負ったり・・・・、
数え上げればキリが無い。
加えて同級生からの虐めもあった。顔面に唾を吐きかけられては、よく殴り返したりして乱闘したものだ。
・・・・
それくらいに、課せられる過酷な事ばかりに何かが、自分では解らない何処かが悲鳴を上げ続けていたんだ。
おれは、それらの苦痛から逃れたくてたまらなくて、ひたすら架空の世界へと逃げた。
それを満たしてくれるのはファミコンのドラゴンクエストだった。
しかし、おれの両親はTVゲームこそ子供に対する害悪の根源だと言って憚らなかった。
おれは運が良ければ週に一度だけ母の実家で、せいぜい2~4時間ゲームをさせて貰えるだけだった。
それ以外の時間は、ひたすら絵を描いていた。
それ以外の時間は、ひたすら話を書いていた。
ひたすらに現実の事象から目を背けたくて仕方なくて、ファミコン以外の異世界への繋がりを貪欲に探した。
けれども、当時、文庫が再版され始めた”指輪物語”の何とつまらなかった事か!
三十二歳のチビスケのホビットのおっさんが主人公の物語などに十三歳の強さに憧れる少年がどうして没頭できるだろうか?
おれはビニールの被せていない古本屋に、よく入り浸った。
其処で、”トーランドットの錬金術師”という本に巡り合う。
それは精密な線からなる漫画集であり、中でも”酸化した音楽”という作品に強く心を打たれた。
おれは即座に、その場で友達に現金千円を借りて、自分の小遣いを足して即、その本を買った。
そして、常にバックパックにその本をしまって歩くほどになった。
十四歳の時に初めて自分の部屋を与えられた。
親のタンスだらけの部屋だったけれど、団地とは決定的に違うプライベートが其処にはあった。ファミコンが出来ない事を除けば、エッチな本も隠し放題、酒も飲み放題、夜更かしはし放題。
けれどプライバシーなんて物は微塵にも無かった気がする。
エッチな本も、書いた絵も暴かれまくりだったからね・・・・。
家で自由に出来る機会が増えた事は確かだったけれど。
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タオルケットで扉から漏れる明かりを遮って、
親の寝静まった深夜に台所へ行き、ワインか梅酒をこっそりと盗み出し、一晩で空けて夜明けにゴミ捨て場へとそっと捨てる。
酔っ払いながら絵や物語を書く。当時は塾へ通っていたが、勉強は塾でしかしていなかった気がする。学校の授業は、途轍もなく退屈であり、不思議と塾の授業は面白かったから。何より塾では頑張った分だけ褒めて貰えたから、特に国語の授業は楽しくて仕方なかった。
学校ではノートや教科書に、ひたすら凝った落書きをしていた事しか覚えていない。
事実、印象に残った授業など、カエルの解剖と、うどん作りくらいのものだ。
だが、どうだろう?たった十四歳の人生経験の少ない少年に壮大な話や、巧みな絵も描ける、書けるわけが無いのだ。
何処までも絶望しそうなものだが、酩酊の力とは恐ろしいもので、酔えば酔うほどに若い身体は創作が面白くなるものだった。
ファミコン等のTVゲームへの抑圧は、莫大な掛値となって跳ね返ってきたのだ。
今のおれが在るのはTVゲームへの抑圧であったと言っても過言ではないだろう。でなければ、きっと、もっと平凡な消費型のつまらない人間だったと思う。
おれは沢山の絵や物語を書き描いた。
しかし、それらの殆どは破いて燃やして仕舞った。
一度しか口を聞いた事しかない、狂おしく恋した初恋の少女の写真と一緒に。
おれの書いた物語の初期作品はごく僅かだけれど残っている。
けれど、そのごく短い詩みたいな作品は実に良く出来ていて今でも恥じる事無く見せられる代物だと思う。その作品は、いずれ気が向いたらこのnoteで公開する事にしよう。タイトルは”鋏の橋”という詩です。