木に括られた仔象3
~告白~
・・・・ピンクの塀の向こうに見える団地の建物。
あの屋根に上れば、あの青い空に触れるんじゃないかと思った。
炒められたケチャップとピーマンの混ざった昼のチキンライスの匂いが、
ゴミ捨て場の前にある、おれの家の中から漂ってきた。
あれこそが、おれの初めての感覚というか物心の様な気がする。
・・・・
おれん家は貧しかったらしいが、それを感じさせない明らかな豊かさがあった。
2LDKの団地だったが、整理整頓され掃除の行き届いた部屋。
趣味の良い北欧家具。母の手間を惜しまない料理。
おれん家ではスーパーの惣菜が並んだ事など一度も無いし、
カップ麺が昼食の時なんて日清のシーフードヌードルが出たばかりの頃の一度しか無かった。
特に牛のテールを使ったビーフシチューとかグラタンが大好きだった。
パンやケーキ、カステラなどよく一緒に作った。
日曜日は決まってホットプレートで鉄板焼きをし、甘いものを普段飲ませて貰えなかったので、
”日曜日の朝ごはん”の時のガムシロップを入れた甘いアイスティーは一週間の楽しみの一つだった。
毎週水曜日と日曜日には鍼灸医を開業した伯父さんが来てよく遊んで貰った。
伯父さんは”おにんにん”伯父さんの様なお兄さんという意味の、おれが編み出したとされる呼称で呼んでいた。
おにんにんが作るたこ焼きは本当に美味しかったな。
よくドクタースランプやドラゴンボールを一緒に見て、その後にお絵かきして遊んで貰ったものだ。
おにんにんは抜群に絵が上手かった。そして歌とギターが上手かった。
おにんにんは来る度にビールばかり飲んでいて、たまに貰うつまみのビーフジャーキーが大好きだった。
父の車は大型ワゴン車で週末には少なくともおれが小さい頃は必ず何処かへ連れて行って貰ったものだ。
おれは上野動物園・水族館や、野田清水公園なんかが好きだった。
他にも博物館、ブリジストン美術館、横浜のオシャレなサーフウェアの店なんかも好きだった。
何よりも夜の車での移動中の助手席で眺める夜景はとても美しかった。
家には当時としては珍しいビデオデッキもあり、よくスタンドバイミー、風の谷のナウシカ、銀河鉄道の夜を見せて貰い、
ゲゲゲの鬼太郎などを録画して貰った。
家や車の中ででかかっていた音楽は洋楽でマンハッタントランスファー、ローリングストーンズ、ワム、
デヴィドボウイ、サムクック、レイチャールズ、他にはYMO、小野リサなんかだった。
ラジオは当然J-WAVE。
近所付き合いも非常に良好で、幼い頃のおれは性別を間違われる位に美しかった。
おれは”あっくん”と呼ばれ、四つ歳の離れた妹も大層美しく”チャチャ”と愛称で呼ばれ、おれたちは沢山の大人達に愛された。
チャチャたる妹は目が大きく見開かれていて今思うと(今でもそうだが)アダムスファミリーの頃のクリスティーナリッチ、安達裕美に似ている。
夏には近所のお盆帰りのおばさん達や、新聞配達のおばさんがよくクワガタやカブトムシを特別におれだけにくれたりした。
近所のおばさん達には本当に良くして貰った。
何気なしに遊びに行くと必ず豪華なお菓子を出して貰ったり、内職で余った玩具のパーツなどくれたり、
生協で頼んだ物の保冷剤として使われていたドライアイスを遊び用にくれたり、
自分の子供達のお下がりの殆ど使っていないだろう玩具とか、グローブとか野球ボール、ロラースケート、
今あったら”まんだらけ”で高額で売れるであろうメンコやウルトラマンカード、キャラクター消しゴムとかが沢山集まった。
おれたちの着ている物も大人に好かれる要因の一つだった様で、
POLOのウェアー。手の込んだ母の手編みのニットや”FUKUZO”のウェアー。
ジーンズかスラックスかチェックのパンツ。
妹は母の手編みのニットワンピースなど。
アウターはGジャンやビンテージ風のスタジャン。
靴はコンバースのチェック柄のオールスター、無地のデッキシューズ、ブーツなんかだった。
おれは当時、他の子供達と同じような漫画の絵がプリントされた靴などが欲しかったけれど。
妹はどうだったか知らないが、おれはお遣い行くと色んな店の大人達は喜び、よく特別のオマケをしてくれたものだった。
精肉店ではグラム数の端数を大幅に負けて貰ったり、小さなスーパーや書店では販促のグッズなどをよく貰った。
母が”いばらぎや”という八百屋さんで談笑している傍ら(母は小柄で巨乳で童顔なのでオジサン達にもてた)隣のお茶さんに行くと、
綺麗なお姉さんがいつも緑茶を出してくれた。
髪なども母の実家が理容室だったので、当時そこら辺の子供と違って坊主頭では無く、品の良い無造作なボブカットで、
妹はロングヘアーに軽いパーマをかけて貰っていて、それは人形の様に可愛らしかった。
そんなおれは、ある日曜日に親の買い物の最中に伊勢丹でファッションショーのモデルにスカウトされた。しかも飛び入りでだ。
おれはその日に薄暗い部屋で着飾られて、他の綺麗な子供達が居る舞台袖が物凄く怖くて大泣きして仕舞い、
もう、ファッションショーどころじゃ無かったのを覚えている。アナウンサーのお姉さんに手を引いてもらい大泣きしていたのを覚えている。
大泣きしたファッションショーの写真は今でも実家にある。・・・・らしい。
・・・・そんなおれは、他の子供達の多くに妬まれていた。
幼稚園の頃のお昼。
おれの弁当は非常に手が込んでおり、先生たちがそれは毎日見るのを楽しみにしていたらしく、
必ずおれの弁当は先生から皆に見せて回られた。
それが大きく他の子供達の妬みに変わる事も知らないで・・・・。
おれには幼いながらにも教養があったらしく、絵や工作、版画等で着想や発想を非常に褒められた。
夏の縁日で作った提灯にカモノハシの絵を描いて大人達を驚かせたらしく、保護者会でクローズアップされたそうな。
それは他の子供には面白くなかったらしく、先生や多くの子供には褒められても、いじけた一部の子供には酷評されたものだ。
太く黒い輪郭で黄色いカモノハシを大胆に描き、青の背景を取るという、
自画自賛になるが中々良くできた代物だった。
がらくた工作なる、日用品の廃棄物をガムテープで繋いで作る遊戯で、
おれはシャンプーの容器と小さなお菓子の箱で作ったシンプルなロボットを非常に褒められたのだが、
当時、”キノコ頭”と呼ばれていたおかっぱの、背が高く山犬みたいに荒くれていたオオタというガキ大将の逆鱗に触れたらしく、
そのロボットをそいつに取り上げられ”ちんぽこそば”という名前を勝手に付けられて仕舞ったのを覚えている。
オオタは実の母親と取っ組み合いのケンカをする位に荒くれていたなあ。
「うちから出てけよ!クソババア!」とか言いながら。
オオタにはかなり妬まれていたのだと痛感する。
おれん家とは決定的に違っていたから・・・・。可哀相な奴だったんだなぁ
そうやって子供社会に出始めてから、おれは少しずつ妬まれ、少しずつ虐められ始めていった。
実に中学を卒業するまで、
高校受験に失敗するまで、
高校を退学するまで、
おれの妬まれるサイクルは続いて行った・・・・。