第2回 映画「ファルコンレイク」(シャルロット·ル·ボン)
どうも。自家焙煎珈琲パイデイアです。
さて、今回の備忘録はシャルロット·ル·ボン監督の映画「ファルコンレイク」です。
久しぶりに、観賞後、外へ出ても上手く息が吸えない映画でした。
ずっと胸の内側を、ギュッと握ってグリッと捻られている苦しさ。こんな感じは本当に久しぶりでした。
あらすじ
14歳になるバスティアンは、2年ぶりに湖畔のコテージに家族と共に一夏の避暑に訪れます。そこで母親の友人家族と一緒になります。
バスティアンは、久しぶりに会った友人家族の16歳になる娘、クロエの大人になった様子に異性としての意識が芽生えます。
大人たちから盗ってきたワイン、深夜のパーティー、とバスティアンには刺激的なイベントが続きます。それは思春期特有の居心地の悪さ、故により魅惑的にバスティアンを誘います。
14歳の少年はその刺激に翻弄されながらも、なんとかその輪の中に留まり続けようと、咄嗟にある嘘をつきます。バスティアンによる自分を大きく見せるだけの嘘にクロエは失望し、そして、そんな嘘をきっかけにクロエとバスティアンの間は暗雲が立ちこめます。
いつだろうか、私もバスティアンのように、恋愛感情かどうか、自分で認識できていない淡い感情を誰かに抱いていたことがきっとある。でも、いつのことか、誰へ対してなのか、全く思い出せない。
思い出せるのは、ただ、自分にもそういう感情があった、という私にしかわからない実存まけ。
私は思春期の、何かに満たされていない、という感覚を実は覚えていません。
私の中でそれは誰かの物語から拝借してきた感覚でしかないのです。
多感な高校生時代にはクラスの誰もが携帯を持っていて、当時、「mixi」というSNSの走りみたいなもので、今よりも共時性が劣るにしても、常に誰かと繋がるという感覚がありました。部活が忙しかったですし、その中でも割と中心的な存在でいました。
高校1の夏から高3の夏まで2年付き合った彼女がいて、何かに満たされていない、という感覚を覚えていないのです。
それでも、バスティアンが表現する居心地の悪さ、に共感して、私の記憶の中どこかでクロエは見えないのに、焦がれる想いだけを思い出すのです。
あった、という感情の実存だけが残り、記憶のどこにも紐づかない映画鑑賞は初めてだったかもしません。
ポスターの《人生で一度きりの夏》という言葉が美しく光ります。
一度きりの夏を描いた青春映画は世の中にごまんとあります。そんな映画の多くが描くのは、表層的で記号的な、誰かの青春でしかありません。しかし、この映画は確かに私の感情として記憶されている、いつの頃か、を思い出させてくれます。
私の中の血肉となっている一部がスクリーンに映るのです。
もう戻れない、という喪失感だけが、私にも確かにあった青春を思い出させるのです。
全編通して、郊外の湖の自然、デジタルやSNS、文明的なものがほとんど排除された舞台が、懐かしさ、を刹那的、かつ郷愁に満ちた小さな世界として描き出します。
その小さな世界が、バスティアンとクロエの再会、クロエに対する恋愛感情の芽生えの脆さや淡さとリンクして、より物語へと没入感を高めます。
思春期の性から連なる「生」と幽霊などのエピソードに連なる「死」のモチーフが交互に繰り返され、終始不安定な緊張感を張り巡らします。
この緊張感のある演出がクライマックスに向けて、非常に効いてきて、素晴らしい演出だったと思います。
久しぶりに、良い映画を観た、という充足感たっぷりの映画でした。
ということで、今回はシャルロットルボン監督の映画「ファルコンレイク」でした。
自家焙煎珈琲パイデイアのHPでも毎週金曜日、「焙きながらするほどでもない話」というエッセイを更新しています。こちらもぜひ、ご一読ください。
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