とおせんぼ
「この道は通るなよ!」
怒鳴り声がした。
青戸くんだ。
ピアニカを右手に持ったまま両手を目一杯広げてこちらを睨んでいる。
僕の帰り道に一箇所、少し狭い裏路地があるのだけど青戸くんは時々そこにいて、僕の進路を塞ぐ。
「お前にはここを通る権利がないんだからな!」
青戸くんはそう叫ぶと少しこちらに近づいてきた。
何時ものことではあるけれど、僕は少したじろいで後退りした。
そして僕は今日も踵を返して、大通りを遠回りするのだ。
言い返してやりたい気持ちはあるけれど、僕は大きな声を出すのも、自分の気持ちを伝えるのも得意ではない。
青戸くんがとうせんぼをし始めた頃、一度だけ「どうしてなの?」と恐る恐る聞いてみたけれど、青戸くんは聞こえないふりをして、「通るな!」を連呼してきた。
でも、僕は青戸くんの気持ちが分からなくもなかった。
友達に聞いた話だけれど、青戸くんは小学校に上がる頃に母親を亡くし、その翌年に父親は青戸くんを彼の祖父母に押し付けて出て行ったそうだ。
その頃から彼の素行に問題が出てきて、高学年になるとそれは顕著になり、ここ最近は不可解な行動が以前にも増して酷くなっている様だった。
怒鳴ったりだけでは無く、ふらっと何処かへ行ってしまう事もある様だった。
連れ戻されても、涙ひとつ流さず、家族にも暴言を吐く様にもなって来たそうだ。
そんな彼に近所の皆も手を焼いていると聞いたことがある。
でも、「青戸くんは寂しいのだろうな」と僕はそう考えて、ぐっと堪える様にしていた。
していたけれど、ある日僕はとうとう彼を怒鳴りつけてしまった。
その日は幼馴染のミキちゃんのお見舞い行く日だった。
ミキちゃんは体があまり丈夫では無くて、最近入院をしてしまっていた。
筋力が徐々に衰えて動けなくなる可能性があるそうで、家族の意向で明後日には都会の大きな病院へ転院しなければならなかった。
なので、僕はもしかしたらミキちゃんに会えるのは今日が最後かも知れないと思い、大急ぎで家へ帰り、支度をして面会時間の内にお見舞い駆けつけたかった。
駆けつけたかったけれど…。
青戸くんは今日もそこに居て、やはりとおせんぼをしていた。
お盆も間近の暑い日だったけれど、青戸くんは汗一つかかず、黄色い通学帽を被り、虫あみを片手に両手を目一杯広げて立っていた。
「お前!ここは通れないぞ!」
青戸くんが叫んだ。
いつもならすぐさま踵を返すのだけれど、大通りを回るとお見舞いに行くバスに間に合わない様な気持ちがして、僕は思わず大声を上げてしまった。
「青戸くん!僕は急いでるんだ!いつも回り道してるじゃないか!今日は通してくれよ!」
しかし青戸くんは聞こえないふりで、とおせんぼを続けている。
強い日差しが帽子を被り忘れた僕の頭でジリジリしている。
しばし無言でいたが、僕はもう一度これまでにない大声で叫んだ。
「通せよ!青戸くん!寂しいのは君だけじゃないんだよ!僕だってお父さんもお母さんももう居ないんだよ!君だけじゃないんだよ!」
そう、僕のお父さんもお母さんももうこの世にはいなかった。
青戸くんには寂しいのは自分だけではないと分かってほしかった。
でも、青戸くんは一瞬耳を傾ける様な仕草をしたけれど、とうせんぼを止めようとはしなかった。
僕は小さく溜息をつき、仕方なく踵を返し路地を戻り始めた。
すると背後から奇妙な叫び声がしたので驚いて振り返ると、青戸くんが何か訳の分からない事を叫びながら路地の向こうへふらふらと歩いていくのが見えた。
僕はそのまま路地を抜ければよかったけれど、少し怖くなってしまい、仕方なく大通りを回って家へ帰った。
そして、お見舞いに間に合うバスには乗ることは出来なかった。
その日から青戸くんの姿は路地裏から消えた。
いや路地裏だけでは無くて、この街から青戸くんの姿は消えた。
行動が不安定になりすぎて、何処かに引き取られたのだろうと噂で聞いただけで、その真相は分からなかった。
そして、それから三年経ったある日、青戸くんが亡くなったと聞いた。
友達の友治くんが僕の家にやって来たのは年の瀬の寒い日で、友治くんは居間の窓から部屋に上がるなり、「青戸…死んだよ」と告げた。
「どうして?」
なんとなく分かってはいたけれど、僕は聞いた。
「寿命だよね…九十四だもんね」
友治くんはボソッと言った。
「徘徊も酷いし、耳も悪かったし、ひ孫の物を勝手に持ち出すしね。おまえも迷惑被ってたんじゃないか?」
友治くんは笑いながら言ったが、僕はとおせんぼされたぐらいだから、「そんなことないかな」と小さく答えた。
そして、それよりも驚いたことが僕にはあった。
「青戸くん…歳下だったのかあ」
子供達が玄関で騒いでいる気配がした。
東京に住んでいる息子夫婦が着いたのだろう。
「お、嬉しいお客さんが来たね」友治くんは我が事の様に嬉しそうに言うと、居間の窓からサンダルを履いて帰って行った。
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