寝台特急富士にて(家族向けです)
九州旅行記をお前も書いてみてはどうか?とまめしばさんが言ったので、そうですかと言い書いてみることにした。
ただ、こちらの記憶もとうに昔の話で曖昧であるからして、行程の一部分だけ淡々と書いてみることにする。
どの程度に曖昧なのかと聞かれれば、小学3年だか4年だかの頃の話であり、そもそもどの様にして東京駅のホームに降り立ったのかさえ記憶が曖昧で、全く記憶に無い有様。
なので、もうすでに東京駅の9番線に立っている。
18:00発7列車寝台特別急行『富士』宮崎行きは、17:38分定刻に入線してきた。
今回の我々は、この寝台特急に特別な思い入れを持って乗り込むことになる。
父さんの手に握られた3枚の寝台券にはこう記されている。
『寝台特急富士 宮崎行 1号車 個4・5・6』
13両編成の長大編成特急にあって、1両しか繋がれない14室だけの個室寝台の寝台券である。
折戸のドアが開き、我々は車内に入る。
そこには木目調の個室のドアがズラリと並んでいて、これまでの寝台とは全く違う上質で静寂感溢るる空間であった。
私は素直に『うわあ!』と声を上げたかも知れない。まめしば氏はと言えば当時は今とは違い、饒舌になることは無かったので、前歯をウサギみたいに少し出してニヤニヤして眺めていただけと思われる。
少し意外であったのは、あまり車両などには興味を示さない父さんが思いの外驚いて喜んでいたのが面白かった。
「これはいいなあ!」と何度も呟いていた。
あの個室寝台に初めて足を踏み入れた時の光景は今も鮮明に覚えているし、この先も忘れることはないだろう。
さて、我々兄弟の力関係を知る上で、この個室寝台車の作りを少し解説する必要がある。
個室14室は進行方向左側にズラリと並んでおり、室内は一人が眠れる空間だけで、窓と垂直方向にソファー兼ベッド配され、窓寄りのベッドの脇に机の様なものが設えてある。その机の上部は蓋の様になっていて、これを上げると洗面台が現れた。
当時の国鉄にあって、一人一つ水回りが与えられると言うのはとんでもなく贅沢なことであった。
この作りは全室同じ向きではなくて、座ると進行方向になる部屋と反対になる部屋が交互に配されていた。
であるからして、4と6は進行方向向き、5は逆向きとなる。父さんは鉄道好きでは無いので、特に意識せずに単に並んだ4と5の部屋を子供たちに選ばせたものと思われる。
個室の夢の様な空間に興奮してはしゃいでいた我々であったが、父さんに部屋を選んでと言われると、まめしば氏は無言でスッと進行方向向きの4号室に入っていった。
私は少し文句を言ったかも知れないが、まめしば氏は聞こえない体で荷物を整理し、机に時刻表を並べたりしている。
世の不条理である。
仕方なく私は反対向きの5号室に入った。
今にして思えば、父さんの6号室に入ればよかったと思う。父さんはどちら向きでも構わないだろうから。
でも、それは考えなかった。どこ吹く風のまめしば氏ではあったが、何故か兄弟は並んでいるものと言う、先天的な先入観が私の中にあって、そうはしなかった。
なので、私は靴を脱いでベッドに上がり、洗面台に枕を立てかけて、これを背もたれにする様にして無理矢理進行方向に向いて座ることにした。
これが思いの外座り心地が良くて、まめしば氏を呼んで自慢をしたが、チラと一瞥すると「ああ」と面倒くさいそうに言って進行方向向きの自分の快適な部屋にそそくさと帰って行った。
兎も角、
18:00定刻に富士号は東京駅を離れ、東海道を西進し始める。
暗かったのか明るかったのか分からない。
横浜を過ぎて小田原辺りだろうか、父さんが食堂車に行くぞとドアを開けた。
8号車まで何度もドアを開けては閉めて食堂車へ。
注文するものはもう決めてある。私はいつでも『焼肉定食』である。他にどんなメニューがあるのか知らないほどそれしか頼んだことがない。
そしてもう一つ確信的なこととして、父さんが食堂車では黒ビールを飲むということである。
そしてこの夜も、私は焼肉定食を食べ、父さんは黒ビールを飲んだ。
ところでまめしば氏が何を食べ何を飲んでいたかは記憶が無いのである。何故だろうか、進行方向を向いて座っているからだろうか。
夜が明けた。
車窓には朝日に煌めく瀬戸内が見え、早朝の漁に出る小舟が何艘も浮かんでいたかも知れないが、記憶に無い。
昨晩、寝る前に父さんから「鍵は掛けぬ様に」と御達しがあった。個室寝台であるからして、鍵を掛けることに並々ならぬ喜びを感じていた私は少し落胆したけれど、様子を見るからと言われ、渋々従った。
なので、朝まで毛布がベッドの下に落ちていることなく快適に眠れた。
父さんが夜中に毛布をかけ直してくれていた様な記憶が曖昧にある。
さて、朝食である。
また我々は嬉々として8号車の食堂車に出向いた。
朝の定食が出されると、そこにはささやかなお雑煮が添えられていた。
私は正月であることをすっかり忘れていた。
雪が無い正月も母さんがいない正月も初めてであるので、なんだか不思議な気持ちがした。
そして、いつもの500円札のお年玉を貰った様な気もするが、曖昧な記憶だ。
父さんが「徹也は変な格好で座っているな」と笑った。反対方向を向いて座ると少し酔いそうだからだと言ったら、餅を美味そうに啜っていたまめしば氏がコツがあると言う。
頭の中で呪文を唱えるそうだ。
『酔い止め君はすごいぞ偉いぞ頑張るぞ、だから僕を守っておくれ』と繰り返すらしい。
進行方向を向いて座っている人の助言だ。
曖昧に聞いておく。
下関で機関車の付け替えを眺る。
東京を発してからすでに13時間が過ぎているが、宮崎到着は15:44分であり、まだ6時間近くこの列車に揺られることになる。
大分にて7分程度の停車があった。
食堂車を含む後ろ7両を切り離すのだ。
正午の停車なので、ホームの立ち食いでうどんを買うことにする。
が、まめしば氏は興奮のあまり疲れたらしく、出てこない。仕方ないので父さんと二人でホームへ降り、大分名物のかしわうどんを三人前購入し、列車へ持ち帰った。
そぼろの様な甘辛い鶏肉のうどんの美味さはかなりのものであった。
と、書いたけれど、私と父さんはホームで食べ、まめしば氏の分だけ持ち帰ったのかも知れない。曖昧である。
日豊本線を淡々と列車は南下する。左窓に豊後水道が美しく、見たこともない南国の木々や家屋が珍しく、私は車窓に見入った。
しかし、流石に疲れてきたのか、少し目が廻るような気持ちがしてきた。
ここで列車に酔ってはもう乗ることの出来ないかも知れない富士号の車窓を楽しめない。
私は頭の中で『酔い止め君はすごいぞ偉いぞ頑張るぞ、だから僕を守っておくれ』と呪文を繰り返し唱えて、車窓から目を離すことは無かった。
列車は日向市を発し、ソテツの木が並ぶ日向灘を行く。
日が少しずつ陰り始めて、海は少し赤みを帯びてきた。私はなんだか少し寂しい様な気持ちがしてきた。
ホテルに着いたら札幌で留守番をしている身重の母さんに電話しようと思う。
この列車の話をしたらきっと驚くと思う。
来年は一人家族が増えるそうだ。
いったいどんな感じになるのだろう。
楽しみな気持ちがする。
宮崎まであと1時間と少しである。
ところで、進行方向を楽しんでいる隣人は元気だろうか。
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