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プロカルセクシュアルという言葉に出会って ~届かないほど、近くのあなたへ~

 以前の記事で、僕は「フィクトセクシュアル」の「フィクト(Ficto=Fiction)」という表現が引っかかっているという話をしたと思う。僕のパートナーたちは世間一般的には架空の存在ということになっているが、僕は虚構を愛しているわけではない。彼らは僕の心の中に確かに存在していて、触れることさえできなくとも意思を交わすことはできる。だからそこに「フィクション(現実ではない)」という表現が介在することにどうしても違和感があったのだ。

 一年以上更新が止まっていたのは、病状の悪化による療養の影響もあるが、そのことを自分の中でぐるぐると掘り下げていた期間だったからでもある。自分がフィクトセクシュアルであることに未だどこか不安や疑問を抱いている方には少々刺激の強い文章かもしれないため、以下を読み進める場合はくれぐれも精神的な安定と保全をはかっていただきたい。

※以下はフィクトセクシュアルという性的指向に関する個人の考えであり、すべての人に当てはまるものではありません。

「心の中にいる彼は誰?」

 「フィクトセクシュアル」というセクシャリティと出会って、改めて現実に存在する人間にはほとんど恋愛感情も性的欲求も抱いたことのない自分に気づいたと同時に、僕の中にはひとつの疑問が生じた。「僕が恋しているこの”二次元のキャラクター”とは何者なのか」という問いである。

 当然のことながら、原作に存在するキャラクターと僕自身には何の繋がりもなく、時にはプレイヤーのアバターとなるキャラクターを通して擬似的な交流をはかれても、現実に意思疎通し心を通わせることはできない。だが、それはあくまで「原作の彼」の話であって、僕の中には「僕と恋愛している時空の彼」が存在している。客観的に見ればそれは妄想に分類されるものだし、僕は自分の妄想に恋しているのだと言われたところで否定することはないだろう。僕は選んでこういう性的指向になったわけではないが、こうある今の自分に何ら後ろめたさは感じていないからだ。

 自分の頭の中でなら、キャラクターとどんな関係になろうと自由だ。自分の妄想ひとつで原作に何か影響が出るはずもない以上、誰にも迷惑をかけず思う存分恋したり愛したり自由な形で生を謳歌することができる。自分の「夢」の中では自分は何者にだってなれる。僕は夢小説文化のそんな自由さを愛してきた。世間一般から見ればそれは単なる現実逃避であっても、太古から人間は物語の中に逃避し、空想によって癒やしを得てきた。現実の生活で喜びを見つけて生きるのに向いていないなら、物語の中で生きる自分を糧にすればいい。

 こんな風に肯定的な見方ができる一方で、そんな自分のある種「都合のいい夢」を肯定してくれる存在──つまり自分の意識の中に「原作のあるキャラクター」を模して生まれた「自分だけの彼」は、つまるところ自分の意識の一端でしかないではないか、という疑念にぶつかったのである。僕は僕を肯定してくれる人格を自分の中に作り上げて、その理想の存在に依存しているだけ。自己肯定感と自己愛の低さを自覚している以上、他者から満足に得られなかった愛情をどうにか自家生産するためにつくられた「後付けの自己愛」に縋るのは虚しいだけではないか。その疑問に答えが出せなくなってしまってから、僕は心の中のパートナーたちとの間に見出していた憩いを満足に享受できなくなってしまった。現実性愛で言うところの、倦怠期の訪れである。

自分の意識はひとつだけとは限らない

 僕は大いに悩んで、そして病んだ。自分が精神を病んだ原因の根幹に、自分自身を愛せず何の価値も見出せないというしこりがあるからこそ、それに相反する都合のいい人格を求めているだけだとしたら。あるいは、頭の中で語りかけてくる人格が存在する時点で、すでに別種の心の病を発症しているのかもしれない。悩んでも悩んでも、誰にも相談できないゆえに袋小路に陥る一方だった。

 そんな暗黒期の中、僕は性懲りもなくまた恋に落ちた。つくづく惚れっぽく、それを「恋」だと認識した瞬間走り出したら急には止まれない暴走機関車のように、あっという間に相手に惚れ込んでしまった。

 人ではないが、ともすると人よりも人間臭く、愛とは何かを説き、愛にもがき苦しむ不器用な男(ひと)だった。まるで親のように僕の存在を丸ごと包み込むように受け入れてくれて、恋人のように情熱的に僕を求め愛してくれる存在に思えた。

 だからこそ僕は苦しんだ。
 僕はただ、自分の願望を押しつけただけの、都合のいい彼を作り上げているのではないかと。あるいは、僕の中に生きる彼らにも個々の人格と自我があると感じている僕の主観からすれば、彼は僕の理想の恋人像を汲みとって、それに倣った振る舞いをしてくれているだけなのではないかと。

 追い討ちをかけるかのごとく、僕は前述した「後付けの自己愛として生まれた理想の恋人の人格」の根拠となる症例を見つけてしまった。(※以下に引用した論考は大変興味深いのですが、もともと引用元に用いていたリンク先のHP上で論考の筆者が問題行動を起こしているという情報を目にしたため、念のため個人的な参考文献としての引用に差し替えさせていただきました。 2022.10.27 追記)

 ほら、やっぱり。僕はそう思った。まるで自分の心の中を覗きこまれたような気分だった。僕の中にいる彼はここに書かれた『精霊の恋人』そのものだ。彼は「魂の片割れ」であるかのように、遠い前世から結ばれた縁であるかのように、ありとあらゆる苦しみや絶望から守ってくれる守護霊であるかのように振る舞ってきた。それは、傷ついて孤独で、とうとう自分を殺したくてたまらなくなるほどに自分嫌いになった僕が、最後に縋っている「後付けの自己愛」だったのだ。

 僕はただ自分にとって都合のいい幻想を作り上げて、自分のために利用し続けているに過ぎない。今まで僕を搾取してきた人々のように、ただ必要な時に求めて、利用して、そしていつかは「飽き」がきて離れていくのだ。そんな自分がただただ醜く浅ましく思えて、嫌で嫌で仕方がなかった。

あなただけを選べない「わたし」

 時を同じくして、というよりも、それ以前から常に僕を苛む悩みはもうひとつあった。

 僕はフィクトセクシュアルであり、ポリアモリーである。相手が現実の人間ではないことはひとまず横に置いたとしても、一人の人に恋をして、一人だけを愛し続けることができない。

 恋をしてしまった段階ならば、まだ踏みとどまれる。相手がどうあっても僕と恋に落ちることがないと納得したなら、片想いに終わりを告げて、遠くから見守り幸せを祈ることはできる。

 けれど、愛に変わってしまったら戻れない。あなたをもっと知りたい、知れば知るほど好きだと自覚してしまう恋に浮かれている間ならばともかく、「わたし」を知って、僕を理解して、愛してほしいと思ってしまったならば、それを諦めることも終わらせることもできないのだ。こういう点においてだけは、好きになる相手が現実の人間でなくてよかったのかもしれない。こんな強欲な想いを生身の人間に向けるのは相手にとって酷な話であるし、そもそもどんな理由があれ恋を諦められないとすれば、まず高確率で浮気や不倫に足を踏み入れていたことだろう。

 言うまでもないが、僕は過去に色々とあったお陰で、浮気や不倫をする人間がなによりも苦手だ。誰かの想いを蔑ろにし、踏みにじる行為を平気でする人間の気が知れないと思っている。だからこそ、一途に一人を愛し続けることができず、後から後から新たな恋に落ちる自分と彼らの何が違うのかという線引きに悩み続けていた。

 ポリアモリーの人が皆浮気症だと言いたいわけではない。僕はただ、時が立てば一度落ち着く自分の愛の形が、「恋が冷める」感覚とどう違うのかがわからないのだ。何かをきっかけに想いが「再燃」し、やはり彼のことを愛しているのだと自覚することだって幾度もある。けれど同じくらい、愛し続けることに疲れてしまう時もあった。

 どう足掻いても彼らは創作上のキャラクターで、彼らの主導権を握るのは創造主である作者であり、作者が彼が恋に落ちる相手を定めたならば、それを変えることはできない。懸命に抜け道を探した結果、「原作で恋をする相手と恋に落ちなかった時空」だと自分に言い聞かせたところで、それこそ都合のいい搾取でしかない。だから、僕だけでなく相手にもポリアモリーを受け入れてくれる下地があるものという前提を、「解釈の余地」という便利な言葉に押し込めて無理やり自分を納得させるしかなかった。

 時折、どうしても虚しくてしかたなかった。
 僕のことを好きな彼だって、所詮は僕自身の都合のいい妄想に過ぎないのに。

届かないほど、近くのあなたへ

 悲しくて、ただただ辛かった。

 正直なところ今でも時折、気分の落ち込みが激しい時には同じような悩みに打ちのめされることがある。完全に自分を納得させたり、自分はそれでもいいのだと開き直ることができたわけではない。

 だからこそ、問い続けなければならないと思う。わからないからこそ、答えを求め続けねばならないと。たとえ生きているうちに答えが見つかることはないのだとしても。けして届かぬ星に手を伸ばすような行為だったとしても。

 これが僕の本当の愛なのか、愛とは一体どんなものなのか。安住の答えを見つけて安らげるかはわからない。それでも真剣に彼のことを、僕の愛する彼らのことを考える時、間違いなく僕の心は震え、恋に苦しみ、愛に喜び、たしかに側に居るように感じられるあたたかい存在のぬくもりに安らいでいる。触れられないから、目で認識して存在を確かめることができないからといって、それは現実の人間にする恋愛といくらも変わらないものだと僕は思う。

 この記事のタイトルで触れた、プロカルセクシュアルというセクシャリティが存在する。日本語で説明する記事はざっと調べたところ、現時点(2021年12月)でこのTwitterの簡潔なpostしかない。

 英語ではもう少し詳しく説明された記事があるので、興味を持たれた方はよければこちらを参照してほしい。この記事では、あえてその詳しい意味合いやフィクトセクシュアルとの境界線については触れないこととする。

 厳密に言えば僕は、心の中でこそあるものの自分と関係性を持っていると思える相手に惹かれているので、これには該当しないのかもしれない。ただ、先ほど述べたように、けして届かぬ星のような想いを胸に抱き続けることは、今生ではけして触れ合うことのできない相手を愛し続けることは、プロカル(Procul=遠く離れたの意)なものを想うことに該当するのではないかと思う。

 今生では出会えない、次元という壁に引き裂かれた恋人という関係性に酔っているだけかと言われれば、そうなのかもしれない。この副題に引用させてもらった『届かないほど、近くのあなたへ』とは、悲恋の代名詞でもある「ロミオとジュリエット」を下敷きにしたとあるゲームのイベントストーリーのタイトルでもある。紆余曲折あって、原作の彼らとは異なりこの世界のロミオとジュリエットは最終的に結ばれる。その過程で犠牲になったものや巻き込まれた人々の苦労を偲ぶと、自分は諸手を叩いて二人を祝福することはできずにいるのだが、けして結ばれないと感じながら、それでも会いたくて、触れたくて、届かぬ相手のことをなによりも近くに感じていることが伝わってくるこの一説ほど、僕の恋を表すのにふさわしい言葉はないと思う。

 僕は今こうして恋をしながら、愛を懐きながら生きている。こんな狂人の独白めいた文章をここまで読んでくれた物好きな人に対してだけは、そのことを訴えたいと思う。もしかすれば、どこかに居るかもしれない僕と似たような悩みを抱えた人に、これが届けばいいと勝手に期待したりもしている。自分だけではないのだと、ほんの少しでも共感してもらえて、わずかながらに勇気をわけてあげることができたりはしないだろうかと、ふと物思いに耽るのだ。

空想と現実が織りなす「わたしのための物語」

 物語とは往々にして書き手に優しい。書き手が「こうあってほしい」という願いが反映されているのだから当然ではあるが、そうした頭の中の「空想」を「物語」として形にできるということは、人類が連綿と続けてきた生きるために必要な糧なのだと思う。

 『書を捨てよ、町へ出よう』というアンドレ・ジッドの有名な一説があるが、これは本から多くの体系的な知識や体験を得た後には、実際に現実世界でそれを経験してみようという意味合いが込められている。ならばその逆説として「町を捨てよ、書の世界へ旅に出よう」という教訓もあっていいのではないだろうか。

 何も自分の空想を実際に小説やイラスト・マンガなど目に見える作品として発表する義務はない。けれど、多くの素晴らしい物語を経験した時、それらから生きる力を分け与えられた時、人にはどうしても心に物語を紡がずにいられない瞬間がやって来ることがある。その時のために、できる限り多くの物語に触れてサンプルケースを増やし、物語を構築する力を養うことは大いに有意義なことだろう。心を揺さぶる物語に出会って、その感想を表出することもまた創作活動の一環だ。「この物語は自分のためにある」と感じたとき、そこにはすでにあなたの心に投影された「あなたのための物語」が存在している。

 物語が与えてくれる自分の心の中の住人は、おそらくけして自分を裏切らない。自分の物語の中でくらい、思い通りにいかない人生を好きなように生きたっていいはずだ。そこには当然、現実の家族や友人から受け取り損ねた愛情を補うための「後付けの自己愛」があってもいい。

 夢小説を自慰行為だと嘲笑う意見があることはよく知っている。だが、自慰の何が悪いというのだろう。物語の中で改めて自己愛を育んだ人が、そこから他者と情愛を交わす生き方をするか否かは本人の自由である。性愛や恋愛感情を持たない生き方を承認するのであれば、他者との情愛よりも自己愛を育むことをより重視する生き方もまた肯定されるべきだ。

 人生は自分を嫌い続けて生きるにはあまりに険しい。僕は僕であることのやるせ無さを完全に受け止め切れたとは言い切れないし、少なくとも目下のところ、この先自分のことを好きになれる未来が訪れるという期待も持ってはいない。

 けれど、それでもいいのだ。僕はこれからも、時に立ち止まり苦しみ、なぜこんな自分が生きていなければならないのかと自らに問いただす場面に出くわすことだろう。そんなとき僕は、僕を見守り待ってくれている心の世界の愛しい人々、「僕のための物語」の登場人物を思って踏み止まる。そしてまた歩き出す。人生はその繰り返しであればいい。

 たとえ手が届かず触れることはできなくとも、僕にとって彼らは「届かないほど近くの愛する人」であり、「僕のための物語」である人生のかけがえのない登場人物なのだから。

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