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「弱さ」について

弱い、とは。

近頃エグい位漫画を読んでいる。本も読んでいる。メンタルトレーニング、機動戦士ガンダムの英語本、宇宙飛行士の自伝、弓道の教本、会話の本、図書館に返したきり忘れた本、からくりサーカス、医龍、Deep3、孤食ロボット、マチネとソワレ、ベー革、竜女戦記、結婚するって本当ですか、リエゾン、二階堂地獄ゴルフ、氷の城壁新刊…ズラーーーーーッと並ぶ。

書籍がおおよそ月20~30冊(数えてないが期限二週間の図書館で10冊フルに借りて延滞してない為この位だと思う)漫画を含めると月200冊とか行っちゃうのかもしれない。ネカフェと図書館と電子書籍をクルクルしている。

そして一つ分かった事がある。

どうやらこいつらが自分にとっての「人」であったらしい、という事である。


人は一人では生きられない。こうした台詞は何度も聞いている。

人は群れる。共同体を作る。その中で喜び悲しみ怒り楽しみ、色々な事柄を知る。人と人の間で化学反応が起き、回路は共振し、思考は同一化し、また別離し、弛まぬ変化を続ける。それを人は成長、また変化とも呼ぶ。

貴様は今まで食ったパンの枚数を覚えているだろうか。

数え切れない程の無限の会話の集積、意思の疎通、その塵芥の積み重ねが今の人格を形作っており、またこれからもその営みは続き、人は変化していく。文化や慣習はそうやって形作られていく。

自分の場合その構成要素にいささか本や漫画の割合が多いように感じる。いや昔からそうであったに違いない。中世ヨーロッパはキリスト・カトリックに、インドはアッラー、江戸は武士道、現代は資本主義・カルチャーが人格に構成されている。フィクショナルな事柄(狩りをすればマンモスが採れて、生き残れるであろう)は生を生くるにおいて欠かせない。


架空のキャラクターには色々な事を教えてもらった。友情・努力・勝利・世界の仕組み・感情の機微・ギミック・生き様・葛藤・挫折・敗北・心構え・割り切り・受け入れ・魂・摂理・輪廻・仁義・信頼・愚直・技量・…まあキリがない。漫画と本が自分の背骨である。アニメや映画もまあ入れたい。

入る人はここに音楽や部活、サブカルや勉強が入るのだろう。背骨。自分はここから大きく学んできた、と言える何かを。トップレベルの厳しい環境であれば尚更だ。日々の練習は「経験」を作る。そうした人生を送ってみたかったとも思う。キツイ練習は嫌すぎるのですが。

そうした「生」の経験や知識にフィクションは勝てないであろう。勝つって何だという話であるが。キツい人生を送った奴が勝つゲームではない。強いて言えば他人に誠実に接する人間が強いゲームではあってほしい。

こうして畳の上にて水練を積み、水に飛び込み上手く泳ぐ人間を畳の上から見ていたのである。畳が波に攫われてしまえば速やかに溺れてしまうであろう事にシラを切りつつ。


一人で生きている気がしなくもない。休日はほぼ一人で、仕事でもそんなに話さないからである。しかしそれは自分が弱いという事から目を背けている。他人の存在を知覚しようとしていない。

漫画や本にはそれを書いた人がいる。自分はその人とコミュニケーションをしていたのである。発話コミュニケーションの代わりに文字と絵で会話をしていた。そんな単純な事に気付くのに長い時間がかかった。自分はコミュニケーションが嫌いではなかったのである。

他人に興味が無いというのも嘘であった。自分は漫画や本を読むのが好きだからである。漫画や本は他人である。自分は他人に興味を持ち、他人が好きだったのである。

自分のような弱い人間がここまで生き永らえられたのは、即ち困難にブチ当たっていなかったからである。一人で居れば到底吹き飛ばされるような困難、誰かと一緒でなければ乗り切れぬ荒波に運良く引っかかっていなかった。ありがたい。

しかしこうした荒波は必ず襲い来る。自分だけでなく他人にも荒波は来る。そうした時に幾ばくかでも荒波に立ち向かう助けとなれれば、他人から助けて貰えれば人生お互いつつがなく生きていける。そうした苦難を乗り越えるには一人ではいけないのである。


弱い人間は他人から助けてもらう必要が、また他人を助ける必要がある。そうしなくても生きていけたというのは、やはり助けてもらった事に無自覚であったか生死の狭間のヒリヒリした場所に身を投げ込んでいないかとことん鈍感かそのいずれかである。

強い人間は一人で生きていけるがゆえに、寂しくもある。なんでも一人で出来、なんでも他人の手を借りず生きていけるのであれば、ずっと一人である。部屋の中に居続けられる人間、である。

ダンジョン飯は飯や冒険を通じて人がみんなで生きていく様を示している。ああいった優しい話を読んでいるとおじさんはなんだか無性に染み入ってしまうのである。弱い人間がみんなで協力して問題事に立ち向かっていく構図が無性に尊いのであった。

強い人間にはなれない。悲しいことである。私は強い人間になりたかったのだ。一人でも艱難辛苦を乗り越えられる人間になりたかった。勉強も出来るようになりたかった。スポーツも出来ればなお良かった。話術が上手ければ尚の事。強靭な精神でありたかった。イケメンになりたかった。精悍な顔つきというか、全てに自信を持って堂々としている人間になりたかった。

私は弱い。弱い事を知っている。私は自分が強くなく、弱い事を知っている。そうした事に最近気づいた。色々なものに頼り切っている、本や漫画とコミュニケーションを取っている、弱い人間だったのである。


大変である。私は弱いので何かあったらすぐひっくり返ってこの世から成仏してしまうかもしれない。そのうち一人では楽しく生きていけなくなってしまうかもしれない。そうしたらどうしよう。一人でいることが何も楽しくなくなれば人生が何も楽しくなくなってしまう。私はそれが非常に怖いのである。

弱いので他人と楽しく生きていく事が出来たら良い。卑屈になりすぎず、傲慢でもなく、人に臆せずに堂々と日々を過ごしていけたら良い。自分の素を出してそれで日々つつがなく過ごしていけると良い。もっとも近頃は自分の素が何だかわからなくなってしまっているのだが。

自分の素で楽しく過ごせる時間が増えるとよい。他人が笑顔で楽しく過ごせるとよい。人を助けて時に人に助けられるとよい。弱い人間の、一生を賭けるに値する、THE HARDESTな挑戦である。

今日も、明日も、明後日も、出勤である。




「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇である」

チャールズ・チャップリン