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家族がひとつになったと実感。国際結婚15年目に描く夢(長文エッセイ)

「パパとママって、よく離婚しなかったよね」

夫婦ケンカのたびの離婚騒動で、
子どもたちを振り回していた。

最近はする必要もなくなったけれど、
以前の夫は、怒るとぜんぜん喋らない。

「家族でしょう? ちゃんと話そうよ」
「いや、家族じゃない。子どもたちが大きくなったら、離婚しよう」
「もう、またそれ〜?」

ケンカの理由は些細なことだ。

言語の壁があるので、勘違いだったり、

相互に傾聴がなかったり、

心配性の夫、
短気な私、など……。




それが今の私たちに共通しているのは、

ひとつ屋根の下、相手のありのままを認め合い、支え合う。

相手が一生、そばにいると信じられる。

夫と子どもたちには血縁がなくても、本当の家族だと思える。


現在、私が51歳、夫53歳。長女は25歳、次女22歳。
それぞれの夢をもちながら、カナダの田舎で穏やかに暮らしている。


私たちはひとつ。
でもこうなるまでは、


子どもたちが思春期だったころに、それ特有の親子ケンカもあった。


そして何より、夫婦ケンカが長引く原因は、夫が殻に閉じこもり、会話にならなかったことだ。

ムリに口を開けば、悲観、短絡的な言動に走る。

しかし、それは本心の裏返しだと、私が完全に理解してからは……、

もうひとりで苦しまなくていいと、ガチガチの殻を捨て、

その日を境に明るくなった。

コロナ禍のことだった。

結婚後、10年は経っていて、
夫が〝貝〟を強制されてからは30年。



まずは時を遡ります。

ただし注)ご自身にトラウマがある方は、注意してお読みください。

ノンフィクションになります。人間不信の解決までに30年かかったという内容です。

夫のような体験は日本にないはずですが、昨今の不安定な情勢の中、もう〝対岸の火事〟はないかもしれない。これが世界の現状です。

民衆に苦痛を強いることは、悲劇の上塗りでしかない。

各国が回避の努力をすることを、
新たな被害者がいない世界を、

私は心から願っています。














かつてユーゴスラビアという国があった。
そこで生まれ育った夫は、根っからの平和主義者。

紛争勃発時は徴兵を拒否して、強制収容所を経験。

食事もない環境で、体重を半分に減らす。
ときどき給与される少量の水も、飲用に適しているとは言い難く、強制労働中に雨水を飲むのすら禁止。

仲間の死を目のあたりにする体験。9ヶ月後、国際赤十字に救出されたことで九死に一生を得たが、その後もう一度、紛争地帯から安全地帯へと脱出するために、生死を賭けた選別バスに乗るはめとなり、命からがら生き延びてきた経緯がある。

極限の状態で、夫は声を失っていた時期があったそうだ。
喋れば殺される。

20歳だった夫の人権は、すべて否定されていた。

そこから生還できたのは、夫の帰りを信じて待っていたご両親と妹さんがいたからだ。






私と夫の出会いは18年前。

夫は35歳。
21歳でカナダへ移住することに成功し、そこで知り合った日本人女性と結婚。その後、日本に移住してきた英語教師だった。

そのころ、私にも配偶者がいた。
前夫とは学生時代からの付き合いで、2人の娘に恵まれ、

子どもには積極的な英語教育を受けさせたい前夫の方針があり、結果的に、私と夫はそれで出会う。

6歳の長女がインターナショナルスクールに入学したのも前夫の意向で、

そして、当時の私は、次女を通わせるインターナショナル幼稚園を探していた。


初めて夫と会った日に、私が気になったのはイケメンの顔ではなくて、

背中。めちゃめちゃ姿勢が正しくて、広い。

そんな堂々としたのを初めて見た。

対する夫も同じように、私に思うところがあったという。

切っても切れない絆は可笑しい。
お互い気になる第一印象を隠していても、

夫の英語クラスに入った次女が、子どもならではの天真爛漫さで、私たちには特別な結びつきがあると、代わりに体現してくれていた。

それは3歳の彼女が、初めての人見知りによる癇癪を起こし、夫にしか心を開かなかったことによる。

日本人スタッフの女性でも泣き止まず、他の英語教師でもダメ。

幼稚園では1人も友達を作ろうとせず、唯一の楽しみが夫と会えることだったという。

1年後、夫は他の幼稚園の仕事に転職していくが、その直前、私に自分のメルアドを書いた紙切れをくれた。

「英語教育で質問があったら、いつでも連絡を」

そこで私たちの関係は終わるはずだった。

ときどき授業参観で、私が楽しそうな次女の顔を見ることも、通園の電車で夫と一緒になることもなくなった。

「子どもが産まれるんだ」

夫は私と目を合わせない。たまに同じ車両に乗り合わせたときに、ボソッと聞かされたひと言だった。

そう。夫は夫で、自身の幸せな人生を歩んでいた。

住む世界が違うひとを、本気で応援していた頃だ。



次女は、夫が退職した幼稚園で、年少から年中クラスへ進級したが、登園拒否を始めた。

英語は好きでも、夫がいないという理由を振りかざす。頑固極まりなくて、けっきょく私は折れた。

本当に自我の芽生えとともに、意思がはっきりしていて、言い出したらテコでも動かない性格だ。英語を喋る気のない幼稚園に高い授業料を出すより、本人が望んだ近場の一般的な所に転園せざるを得なかった。

前夫は、子どもの個性だからと次女の言う通りにする私に不満があった。
私も、子どもが欲しがりもしない高価な玩具をバンバン買ってくる前夫に不満があった。

子育て観の違いが顕著になるにつれ、取り返しがつかないすれ違いへと発展するが、このときの私は、前夫の方針に則り、夫を代替案として思いだした。

次女のプライベートレッスンを依頼したのは、私の拙い英語だった。

思い出にと仕舞っておいた夫の筆跡。もらったときは大して見もせず、半年ぶりに取り出した。

女の子が書くような丸っこいアルファベットで、几帳面な字を書く人だと、思わず微笑んでしまう。

久しぶりのコンタクト。
次女と私のことを覚えているかどうかも分からず、
ダメ元でメールを送る。


返事はすぐにきた。

大人のレッスンなら、どこかのレストランで落ち合ってするが、子どもは集中できないだろうから、自宅まで出張するスタイルで、こちらが交通費を全額負担するのが条件。

前夫もそれでいいと同意してくれた。

夫がうちへ来ることになり、次女が大喜びだったのは言うまでもない。

毎回レッスン終了後、次女が頑張ったご褒美として
夫からビーズのプレゼントがあった。




「友達だと思って、対等に話してください」

私はレッスン後にお茶を出すが、まともに英語が喋れない。それでも尊敬と感謝を伝えたくて四苦八苦していたら、夫が穏やかに言った。

礼儀正しく控えめで、会話がなくても場を和ませてくれる。急なレッスン日の調整にもすぐに応じてくれて、信頼のおける人だった。

友達だった4年の歳月、

夫の赤ちゃんをお祝いしたくて、自宅へ呼んでもらったことが2回あった。

夏休みのピクニックも1回。

前夫はいつも仕事が忙しく、誘っても一緒に行けたことはないが、私と長女、次女は、夫の家族とは家族ぐるみの付き合いだった。

そんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。


「夏休み、楽しかったですか?」

前夫の浮気と相手女性の妊娠を知らされた。

その数日後。夏休みが明けて、
夫がうちへ来て、久々の英語レッスン。
その質問がきたとき、私は言葉より先に、涙が出た。
楽しかったわけがない。


自分が英語で何と言ったかは覚えていない。たぶん「離婚する」と口走ったのだと思う。ストレスでやつれていた私を、夫は軽く抱きしめてくれた。

その翌週のレッスン終了時には、ビタミンCの大ボトルをテーブルに置いて、

「これは品質がいいものだから。飲んで少しでも良くなって」

相変わらず私とは目を合わせないが、そうやって、その翌々週にもDVDをテーブルにちょんと置いていく。

「気分転換に観て。面白いよ」

どんな気遣いがあっても、夫は既婚者だし、友達としての付き合いだ。

ただ私は、夫の前ではムリに笑わなくていいぶん、気はラクだった。

それだけ。

前夫は次女に多少なりともDVの気があった。
あってはならないことだけど、前夫との18年間は、
ケンカも少なく、私にとっては楽しかった思い出が多い。


子どもたちが精一杯、私を慰めてくれた。

自分たちの父親が出て行ってしまったことを、

「裏切り者」
と言い切って、私の代わりに怒ってくれていた。

しかし、私には前夫に残る情が強く、

重度のうつ状態。不眠症。

前夫が置いていった睡眠剤を、いちどに大量に飲んだ。



丸2日間、眠りこけていた。
幸い連休中だったため、職場に知られることもなく、実家の母が来て、子どもたちを世話してくれた。

その後も泣きたくなるたび、実家の両親を頼る。

徐々に自立した生活ができるようになったころ、ちょうど透析導入になった父を腎クリニックまで送迎するために、その近くの職場に転職した。

両親には感謝の気持ちでいっぱいだ。
頼れる人が心の支えとなり、自分は必ず立ち直れると信じることができた。

自暴自棄をやらかした戒めに、あれきり睡眠剤は飲んでいない。また環境を変えたことにより、心療内科へも行かずに、うつ症状を乗り越えた。

そして、私も子どもたちも二度と前夫とは会っていない。

私は離婚後も旧姓に戻さず、前夫の姓で戸籍を再編した。
子どもが学校で困惑しないように、生まれた時の姓は大事。
慰謝料はもらったし、母子3人で生きていくつもりだった。



『離婚して引っ越したので、(レッスンに行くための)交通費が変更になります(少し安くなるよ)』
「はあ? 離婚?!」

夫の子どもはまだ赤ちゃんだったから、他人事ながらも心配だった。

『日本にいる理由がなくなったので、カナダに帰国するつもりです』

メールは淡々としていた。

しかし、前夫のように離婚後の子どもに興味がないのではない、失意の上のことだと、
私には痛いくらいにわかっていた。

夫が教育者なのは、子どもが好きだからだ。

さらに確信として、

以前、夫の赤ちゃんのお祝いに行ったあとの帰りが遅くなり、車で送ってもらったときのこと。

「今日は楽しかった。(赤ちゃんが)大きくなったら、また会わせてくださいね」

「あと2人、僕には子どもがいるんだ。カナダに」

予期せぬ返答に、助手席の私は驚いた。

暗い車内では顔も窺えず、
頼みの綱の子どもたちは後部座席にいて、はしゃぎ疲れて夢の中。

私が話題を探す必要はなくなったが、

初のふたりきりの会話がそれだった。
本当に、突拍子もない。

聞くところによると、20代が初婚。3人目の子どもは再婚で。

今度こそ幸せになりたかったはずだ。
再出発だったのだろう。

それなのに、夫はまた離婚。


離婚に至る理由はそれぞれだけど、

夫は過去に大切なものをすべて失った経験から、二度と失いたくないと心配性なのだ。

家族はあれこれ心配されて、束縛されたように感じただろう。対する夫は拒絶されたように感じただろう。

折り合いがつかないと、殻に閉じこもってしまう。


そんな夫が夢みた家族……、
あの暗がりの車内は、自分の理想のようだったと
後に聞かされた。

じっさいの私は、もの静かというより、ズバズバ言うようなタイプだけど、

妻帯者だった夫の禁断の願いは、

お互い同時期に離婚したおかげで叶う。


どちらが先に近づいたかは、言わずもがな、
確信をもっていた私のほうだ。

カナダへ帰国するつもりだった夫を止めたのは、
聞きたいことがたくさんあったから。

私が聞きもしないのに、なぜ自らの過去を告白するのか?

目も合わせず、ぽつりぽつりと個人的な話をするのは、私に対してだけなのか?


夫はときどき吹き抜ける風のようで、

次女を光のベールで包み、
私には温かさを残していく。


いつも不思議だったのは――、

私の潜在意識にあった、
「I like you so much」
という気持ち。

それをお互いに確かめ合って関係を始めたけれど、

運命の4年間が平気だった名残りで、“I love you”を言うことはない。

それでも伝わる想いは、たまらなく愛おしい。

最初のうち夫に「先生」を付けない呼び方ができなかった。
私も子どもたちも、物凄く戸惑った懐かしい思い出だ。



再婚後、持ち家を一括払いで共同購入。
転職したての私と外国人の夫では、思ったようなローンが組めず、有り金を最後まで集めるしかなかった。

その後は仕事し詰めの2年間。

私は平日の早朝から夜間まで仕事。
夫が休日の同様。

子どもたちのために在宅するのは交代で。
安心の共働き形態といえるが、とうぜん夫婦はすれ違う。

特に私が悪い。締切のある書類を家まで持ち込み、夫婦の会話もしなかった。

蓄積する仕事のストレス、
子どもの学校行事や役員、地域の当番など。

日本語の読み書きができない夫には代わってもらえない数々に、

自分を労ることも忘れ、心の感度が鈍っていく。

初心を忘れていないのに、ストレスは容易に大切なものを片隅へと追いやってしまう。このままでは夫との関係が壊れても、何とも思わなくなるのでは……。


その矢先に東日本大震災でたくさんの教訓を得た。


安全な引っ越し先を探すことは、
久しぶりの夫婦の会話……だったのに。

その過程でまたケンカして、やけを起こした夫が、
1人分の片道航空券、カナダ行きを購入。

私には相談もなかった。

「一緒に来てくれるなら、カナダでの生活は保障する。でも来ないんだったら、離婚してくれ」


そのころの私は、歴代の奥さま方と比べられ、気の強さが一番だと言われて、さらにキレていた。

今ならわかる。夫は男のプライドで、私の扶養でいるのを好まなかった。

平日にヘロヘロになるまで責任感で働いている私を見ていられなかっただろうし、

本当は自分の大事な家族を、自分の手で養いたいという思いもあり、


また、日本の社会にも上手く馴染めていなかった。

「規則だから」と言われても、
妻や周りの人間の言う通りにはしたくない。

例えば犬の散歩にしても、
たとえ人里離れた場所でも、そう簡単に大型犬を自由に走らせるわけにいかない。また、糞の始末もカナダ式のまま。

「自分には自分の育て方(良い犬にするための)がある」

規則はたいていが権力に繋がっていることも反発の原因。

かつて虐げられた経験から、必要以上の規則を嫌い、何よりも自由を愛する夫だ。


私は二者択一を迫られた。

まったくの異国で、訳ありの過去をもつ人間とやっていく覚悟があるのか? それを思い切り試されていた。

私ひとりの問題ではない。
子どもたちの将来も考えないと……、


でも迷わなかった。

癪だからカナダ行きについて、即答はしなかった。

けれど……、
「離婚? するわけないでしょ、バカ」

それくらいは即答できた。

夫とこれ以上すれ違いたくない。
そのために付いて行く。

勝手にチケットを買うほど、
清々しいまでに自分中心核の夫と、

直感直情で生きている私。

両親が離婚しても、私が睡眠剤騒ぎを起こしても、
グレもせず冷静な子どもたちと一緒に、

幸せになるために行こう。

紛争前、夫は獣医になりたかった。
大学の入学許可はあったのに、収監されて行けなかった過去は変わらないが、カナダの田舎で動物に囲まれた暮らしをしよう。

私も子どものころ、父親がニワトリを飼っていて、
自分が引っ越すたびに「ここでニワトリは飼えるのか」と思ってきたのだ。

もちろん子どもたちも動物が大好きだから。

自分ひとりでは叶わない夢が、家族一丸となれば叶えられる。

私たちはそれを知ったのだった。

その頃の私たちに、まだ家族の色はない。
夫のことは欧米式に呼び捨てだったし、夫は私と子どもを「スイーティ・エンジェル」で呼んでいた。
一般的には素敵な呼び方といえるが、
「パパ・ママ」の現在のほうのが、よほど私たちらしい。



カナダへ移住後のファームについては、今後の別記事でと思う。ここではタイトルに結論づけたい。

まず規則とは?

日本の感覚では、人と人との調和のためだし、
        基盤となる共通のものだ。

多民族国家カナダでは、
個人的に交渉できる余地がある感覚。

私がそれを理解するまで、
夫とは飽きずにケンカ。

夫婦の時間はじゅうぶんあっても、
関係は仕切り直しだ。

カナダに来れば改善、なんて淡い夢。
残念ながらそれだけでは解決しない。

冒頭の会話の通り、
国際結婚によくある、
価値観の違いが暴走を招く。

ギリギリのところで仲直りを繰り返す10年間、
本気で日本に帰ろうと思ったこともある。

あるときのケンカの理由が、
夫の忘れっぽい一面だった。

「喋れない僕を診察してくれた赤十字のドクターに『飢餓状態だったせいで脳に障害が残るかも』って言われた」

腰を据えて話したあとで、私がようやく聞き出せた返答がそれだった。

脳トレを勧めるより、私が夫の記憶を補うしかないと思うようになった。

物の在り処や、
私にカナダ式を教えるのを忘れたなんて些細なことだ。
たとえ将来、夫の物忘れが悪化しようと、

私は一緒にいると覚悟を決めた。




その後もいくつかを乗り越えて、
これが最後と思える、
コロナ禍の、あのケンカとなった。

それは夫が職場からもらってきた、
コロナではなかったけれど、立派な流行り風邪に家族全員が罹ったときだった。

家庭内の感染経路が欧米式バス・トイレ一体型の空間だったとしか思えなくて、

「これがコロナだったら大変。誰が動物を世話するの? それで私、考えてみたけど、一番ひどいときはベッドの横にポータブル便器を置けば、一時的に隔離できて、蔓延を防げるでしょう?」

「What? ポータブル便器なんて冗談じゃない」

「でも病院では普通だよ」

「僕の病院嫌いは知ってるだろう? 管理されるなら死んだほうがマシだ」

「入院の話なんかしてないよ。この家のバス・トイレが別だったらいいのに。他に防御策はないよね?」

「二度とその話はしないでくれ。山の中へ行ってロープで首を括りたくなる」

〝貝〟へ一直線だと、会話にならず。

しばらくして落ち着いたころに聞いてみると、

「強制収容所にトイレがなかったことを思いだしたくない」

「わかった。でも言ってくれないと、何がイヤなのかママにはわからないよ。それだけパパは特殊な経験をしたってこと。でも言ってくれたらわかるから。もうパパにポータブルの話はしない。大丈夫。イヤなことは何でも言って。もう絶対に言わないから」

最初から知っていたらと思う。私があんな提案をすることもなかった。

一方の夫もいったん〝貝〟にならないと、吐き出せない辛さだった。

溜め込んでいた感情をひとつ、
またひとつと私に伝えながら、
トラウマを癒すのは、きっと時間、環境、愛。


「嫌いだ」なんて言葉は、誰もがすぐに言えそうなのに、生き残るために押し殺していたせいで、

自分自身にネガティブな感情があることに、恐れや罪悪感があったのかもしれないし、

そもそも他人を信じてさらけ出すより、殻ごしにするしかできなかった。


私のほうから100%歩み寄って、理解を示すしかないのだと……、

紛争を知らないから……、
極限の体験と“普通”は対極にあると思う。

外圧に柔軟になるのが夫には難しいなら、

「そのままで良いよ。大丈夫、それで良いよ」

“I love you”を言うのは場違いな気がして、
同じセリフを繰り返していた。

不器用な私は専門家でも何でもない。
殻ごとの夫を、丸ごと愛すしかないと思った。

悲しみの数だけ〝貝〟殻。
新しい風が吹いたのは、
たくさん集めたからなのか……。



現在に戻り――、
私たちは、お互いを理解尊重できます。
つまり、夫が私に歩み寄ってきました。

自分の感情をだすのが大の苦手だったのに、

自然に表現できて、話し合いができるようになりました。


夫婦円満になると考えることまで一致するようで、

夢は、子どもたちの将来を応援する、です。

長女は会計士になること。

次女はソーシャルワーカーになること。

今の夫は、自動車パーツのセールス業から、
行政の研修制度を利用したときに縁があり、

社会的弱者である女性と子どものためのシェルター
(NPO施設)でゼネラルマネージャーをしています。

様々な職経験がある夫の HR: human resources の分野での手腕を見込まれてのことですが、

なんと47年間、男性の雇用は1人もいなかった施設で、利用者さんの社会復帰促進のために、また性別を限定しない職種となるように、大きな期待を背負って第一号となりました。

DVや性的なトラウマを抱えた人々に対応できるのは、かつてユーゴスラビアで同じような目に遭った人々を知っていて、NPOならではの使命に理解があってのことですが、

私と子どもたちが女性であることも夫の起用と関係しています。

国際結婚で多文化に理解があることも。
家庭を大切にしている人物であることが、最重要でした。

「ヘイ、ガールズ。大学を卒業したら、パパの所で一緒に仕事しないかい? それがいいだろう? ねえ、ママ」




この記事は以上です。
最後までお付き合い、ありがとうございました。


〝貝〟と家族と長旅と、
その終着点は、うちのガーデンだと思っています。

生死をかけ、看守に隠れて少しの野草で命を繋ぐ。
今でも瑞々しいタンポポの葉は、夫にとってのご馳走です。
収容所で歯を3本失って噛めないと言うわりに、私が採ってくると重ねて丸めて、あっという間に食べてしまいます。
そうやって食べるのが夢だったそうです。



いつの時代にも平和を尊ぶ強い意思を。

それぞれにいる、
かけがえがないと思える、

大切な人たちのために。






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