移動・集まる・対話の自由 | ゴリラの民主主義 | 山極 寿一
今日から7日間、ビッグイシュー406号の特集『コロナ禍で考えた“民主主義”』に寄せられた7つの寄稿を、1日1本ずつ紹介していきます。
なぜなら、ビッグイシューを(そして民主主義も)応援したいから!
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■ 勝手要約(オリジナルは1500〜2000文字程度)
ゴリラにも民主主義がある。オスの役割は、群れの向かう先みんなの意思でが決まった「後」に、先導して安全を守こと。みんなが対等でいられるように、群れに気を配ること。さて日本の政治はどうだろうか?
民主主義は多数決の論理で成立しているのではない。広く意見を聞き、少数でも大切な意見があればそれを拾い上げ、辛抱強くみんなの合意を取るのは本来のあり方。「選挙で勝った = 国民の代表」ではない。民主主義は権力の濫用を防ぐためにある。
コロナ禍における巣ごもり生活で思い知らされたのは、人間が社会を作るには「移動・集まる・対話」の3つの自由が必要だということ。偽政者に対抗するには集まる必要もあるが、デモは武力で封じられ、SNSでは言葉の暴力が飛び交っている。
無責任に意見だけが飛び交うICT社会に、民主主義をどう適用していくのか?
■ 感想とか
「集会の権利」は人権の一部だということを、そしてそれが「移動の権利」と密接に結びついていることを、これを読んで改めて「なるほど」と感じました。
たしかに、これまであまり意識することってなかったけど、「集まること」って示威的ですよね。そして実際、集まれば場にエネルギーが渦まきます。
だからこそ、大昔から権力者はそれが既存権力へと向きを変えることがないよう、「祭り」をとても用心深くウォッチしていたんですよね。
暴動へとつながらないよう宗教的な色合いをつけたり、何らかのクライマックを用意してエネルギーの昇華タイミングや場所を作ったり。
ところで、山極さんの著書は5年前に読んだ『「サル化」する人間社会』から何冊か読み、オンラインで公開されている記事やインタビューなどもたびたび目にしています。そしてその度、いつも何かに気づかせてもらっています。
ただ、正直に言えば、たいていどこか一カ所は、強烈な違和感を覚えるところがあるんですよね…。おれには受け入れ難い何か。「うーん、これはどんな文脈で言っているんだろう?」と頭を捻ってしまう言葉…。
先述の『「サル化」する人間社会』であれば、ダンバー数の受け取り方についてでした。
そして今回は『民主主義はそもそも人々が顔を合わせる場で行使された』という一文。
デジタル(ICT)の人間(生物?)社会に対するマイナス面について、山極さんはとても鋭い観察眼をお持ちだけど、でも、果たして本当に今回の寄稿に書かれているように『異なる意見を熟議してまとめるためには実際に集まって対話することが不可欠』なのでしょうか?
その考えが当てはまるケースがが今はまだマジョリティーかもしれない。でも、おれはそれを「不可欠」としてしまうことには違和感があるなぁ…。
『そもそも人々が顔を合わせる場で行使された』って、ほとんどあらゆる事柄に当てはまる言葉じゃないかな? そして「ICT」という言葉は20世紀の後半に生まれたものかもしれないけれど、人が意見や意思を遠く離れたところまで届けて対話を促そうとしてきたのは大昔からじゃないかな?
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