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被害者になりたくないのなら、加害者になるな(広島原爆資料館から)

先週、ある方の講演でこんな話を聞きました。「都市伝説じゃなかったのか〜」とおれもびっくりしました。
「アメリカ大統領と会う機会があったんですが、核爆弾の起動スイッチが入っていると言われているアタッシュケースを、これ以上ないくらい厳重に守りつつ持ち歩いているSPが実際にいて、びっくりしました。」

以前から、「核についてなにかを語ることは、人をとても慎重にさせる」とは思っていたのだけれど、今、改めてそれを感じています。
どの話をどうしたところで群盲象評に過ぎないだろうという自覚。それでも日本に暮らす人間が力一杯訴えずに、一体世界の誰が核廃絶を訴えられるというのかという疑問。認めざる得ないじゃないかというリアリズムと必要悪の誘惑のコンボ。
自分の中でそんないろいろがうねりあって、たいていいつも、問われているコンテクストの中に「一体他に世界の誰が」という話を収めるのに精一杯…。

そして昨日、初めて広島の「原爆資料館」(別名「広島平和記念資料館」)に行ってきました。
10万人とも14万人とも言われている(そしておそらくはそれよりも多いであろう)人たちの、そしてその人たちを想い続ける人たちの1つ1つが「これも。これも。これも。」と続き、途中からはもう心を薄目にしてしか歩けませんでした。
そして外に出て少し時間をあけて、原爆ドームに行ったら、そのすぐ傍らで反イスラエルのデモ行進が行われていました。
…そのとき、なんだか、ああいろんなものがつながっていくんだなぁって感じたんですよね。
一体なにとなにが、どんなふうにつながっていくのか、よくわからなかったんだけど。

案内してくれた友人たちとごはんを食べて、いっぱい雑談をして、そして別れてホテルでお風呂に入っていたら、おれの中でつながったものがなんだかはっきりしてきて。
一昨日、就活イベントで大学生たちに話を聞いてもらったんだけれど、おれは10代の頃から、「自分の自由」を世界で一番なによりも大事にしていて。絶対にそれを手放したくないと常々思っていたんだけど、いろいろあってクライストチャーチという街で暮らしていた26歳のときに、「自分の自由を守りたければ、相手の自由を侵害してはならない」という基本原則にようやく気付いたんです。

これは「被害者として苦しんでいる方たち」に対してはとても乱暴な言葉だというのはわかっているんだけど、それでもおれは、おそらく「被害者の自分」は受け入れることができると思う(被害そのものを受け入れるのは難しくても、「被害者である自分」を受け入れることはできそうという意味で)。
でも、加害者となること、そして加害者である自分を常に感じながら生きていくことは、この上なく難しそう…いや、おそらく無理。多分保ちきれないと思う。

つながったのはこの思いだったんだなって。
「おれはもう、これ以上『加害者』になりたくない。それがおれの大きな動力なんだな」って。
争いごとは相手があるもので、状況は誰にも決して読み切ることはできない。だから、「自分が加害者にならないように」、あらゆる関係者は慎重に考えた方がいいと思う。自らの内にどんな言い訳を作り出そうと、あなたはそれを一生抱えるのだから。

被害者になりたくないのなら、加害者になるな。

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