愛ってなんですか? @冬のフォルケ
冬のフォルケの統括的なことを書こうと思っていたんだけど、どうやらおれの脳はまだまだ統括したくない様子。まだまだ断片的なエピソードであったりテーマだったりが頭の中に渦巻き続けている。
ここ数日は朝起きて、「あーなるほどね。そういう心持ちってことね」って、自己分析しやすいタイプの夢が増えているような気も。
おれは一生「何者かでありたい。でも自分自身でいたい。」っていう2つの強い衝動をどうにか共存させようとしながら暮らしていくのかも? っていう気がする。そして昔のように、それが嫌じゃなくなってきている。
そんなわけで、10日前からずっとなんども反芻していることを書こう。
「愛とは…う〜ん、執着じゃないかな。」
(いろんな捉え方ができすぎて、"愛は執着"って表現はあまりイケていなかったな…) -- 口に出してからそう思った。
でも同時に、これ以上におれにとっての「愛」にピッタリくる表現はないような気がした。
執着はどうやらもともとは仏教用語で、ネガティブなニュアンスが強い言葉のようだ。いわく「固執し、とらわれること。深く思い込み、どうしても忘れ切れないこと。」
…執着でできた愛は、なんだかドロドロしていて、事件が起きそうだ。
そして実際、そうだと思う。愛はドロドロしていて取り扱い注意で、常に事件の芽を含んでいる。
こねこねと執着を混ぜ合わせる
人間関係(男女間でも親子間でも親友間でも、なんでもよい)において愛に双方向性を求めれば、自分の持つ「ドロドロした執着心」そのままを差し出しても、相手はそれを受け取らないだろう。1度や2度は手にとってジロジロ眺めるかもしれないけれど。
こちらが求めているのは、まず受け取ってもらうこと。それから、それを相手の持っている「ドロドロした執着」と交じり合わせてくれること。
そうしてもらうために、自分のそれを少しずつ変容させていく。
「こういう形にすれば受け取ってもらえるんじゃないか」「こんなものと混ぜたらどうだろうか」 -- そうやって、相手に受け取りやすい形に執着を変質させながら、渡そうとする。そして相手の執着も受け取ろうとする。
こうして執着の受け渡しを繰り返しながら、やがて自分のそれと相手のそれが良い感じに交じり合って、その中に身を置くのが心地よくなっていく。
…うん。やっぱりおれにとって愛って執着で、執着を一緒に成熟させていくことだ。
愛の形は変容し続ける
互いの間で変容を続けていく「執着の形」を、自分たちにフィットさせ続けようという意思が持てること、フィットさせ続けられそうだと感じられること。それがある間はそこに愛があるのだと思う。
執着って言葉がピンとこない人には、「こだわり」に置き換えてもらった方がいいのかも。
もちろん、一方通行の愛を楽しんだり、感情というものを持たないものに対する愛であったり、そういった場合には違うのかもしれない。最初からその執着にはドロっとしたところが少ないのかも。
「パチさんは愛ってなんだと思いますか? What is love?」
あのときうまく伝えられなかった言葉、ある程度ちゃんと言葉にできた気がして。
そうそう。 Compathのフォルケホイスコーレプログラム、次回は来年2月だそうです。
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