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2020.5.22

客観的な視点を自分の言葉に置き換えることはあまり難しくは感じないのですが、自分の主観を言語化することは非常に難しい気がします。自分が良いと思うものを言葉に表すのはとても難しい。

スタイリッシュ、現代的、オシャレ、こういった言葉は好きではありません。もっと無骨で自然で、でも美しい。そういうものが好きですが、ただその基準がとても曖昧。

七尾湾から見渡す里山・里海の景色は初めて能登に来た時から今でもとても美しいと思うけれど、あまりにも雄大な自然を目の前にすると美しいと感じると同時にそれ以上の恐怖を覚えます。自然の脅威に飲み込まれてしまうような。

「作為的」という言葉は好きではないけれど、昭和以前の建造物や古道具は単純に好きだし、美しいと思います。ただそれはもちろん人の手によって作られたものです。

自然を表現する、と言いつつも結局はそのほんの一部を切り取っただけに過ぎないし、人は自然との共存が難しい生き物であるが故に村を作り街を作り国を作ってきたと言えるでしょう。精巧な作り物を美しいという感覚は他の動物にはありません。

人は自然に怯えるからこそ、自然の中に神が存在すると信じ、自然を崇め文明を築いてきました。その神の依代とするものはただの巨木や巨石から建造物へと変わり、それが崇拝され憧れの対象となり人々の美意識が磨かれてきたと思います。

僕が美しいと思うものは、単純にポジティブな印象を受けるものではなく、どこか「わびしさ」を感じるものだと気がつきました。

わびしさとは、「安らぎやうるおいがなく、つらくて心細い状態」とあります。

木や石が剥き出しになっている状態や、経年変化で朽ちている建物。錆び付いた金属。こういったものから感じる美しさとは、自然の脅威からくる不安とどこか共通しているように思えます。経年変化とは間違いなく「自然」に起こり得ることだからです。

「不便さ」というのも自然の美しさを気づかせてくれるものだと思います。

高層ビルが立ち並ぶ都会での生活と、自然に囲まれた田舎での生活。どちらもわびしさを感じ得ますが、僕が美しいと思うのは言うまでもなく後者。何もないと言われる場所や暮らしからこそ感じるものがあるし、決して何もないわけではありません。人々が培ってきた美意識の原点は自然の中にではなく、自然と共に暮らす人々の生活の中にこそ存在します。その自然の面影が残る「人の作りしもの」が自分の美意識の根底にあるのだと思います。

文学作品や音楽なども、どこかわびしさを感じるものは心の奥底に響くものがあります。それは悲劇的な生き方であったり、自らの内面の弱さを吐き出すようなものが多い気がします。それに触れる人たちが感情移入し、共感し、その作品や作者の生き方を美しいと思うのではないでしょうか。

科学が進歩した現代でも、神を信じ祈りを捧げてきた昔の人々の暮らしの中には美しさや美学を感じるものがあります。それが悲劇的な運命を辿ったものであっても、いや悲劇的だからこそ心を打たれます。こういったものを好むからこそ、僕はわびしさを感じるものを美しいと思うのだとも感じます。

この自分の美意識は、感覚としての漠然としたものではなく、こうして言語化しなくてはならないと感じました。何故なら自分のステージは自分一人の力では作れないし、そんな力は自分にはありません。一緒に働くスタッフや、店作りに関わってくれる人たちに共有できないと僕の表現したい世界観は絶対に作れません。

この一年で多くの出会いがあり、ようやく言葉にすることができたので書き記しておきました。

2020.5.22


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