ツバメの千夜一夜
ツバメの巣を取壊す。ツバメは民家に巣作りをすることがあるから、よくそんな目にあうだろう。ツバメは家があるはずの場所を、ずっと彷徨う。もう二度と帰れない家を探して。家を見つけられないツバメの鳴き声は悲しく響き渡るという。
その話を自分に重ねるのはあまりに感傷的すぎるか、と冷静になって想像の世界から目覚めた。空想という意味の夢なら飽きるほど見たが、もうかなりの間寝る時に見る夢は見ていない。睡眠導入剤も暖かな毛布、パチパチと心地の良い音を鳴らすキャンドルもわたしを寝かせてはくれなかった。
昔、ある魔女と契約をした。
美しい文章に胸を打たれ、開けた窓の隙間からやってきて頬を撫でる風さえもきらきらと輝く魔法の粉のように感じた夜の事だった。わたしは美しいものに心を奪われたのだ。好きだったクラシックを流せば、水面が夕日を反射して何度も違う顔を見せてくれているように思う。きっと、あの本はわたしの美に対する感受性を最大限引き出してくれたのだ。「心に奪われた」という慣用句が喩えであることさえ惜しいと思って、ほんとうにわたしの全てを奪いきって欲しいと願った。
勿論魔女なんていうのはわたしの想像でのことだ。ただ、風で揺らめくカーテンは魔女が素顔を隠すヴェールのように捉えることが出来た。海外の深いベリーが香るアロマキャンドルのおかげで、ぐつぐつと呪術的なものを煮込んで魔法の薬を作った魔女の真っ黒なレースの召し物に染み付いた異国の香りを想像する。わたしにとって、その空間は魔女のように美しかった。だから、「魔女がいた」というのは全くの虚言ではないのだ。
きっとわたしは魔女と危険な契約を交わした。もしもこの世の美しさをすべて感じることができて、わたしが思う美になりきれたとしたら、なんでも差し上げますと。
眠れないというのはあまりに魔女の与える代償としてはあまりに優しすぎると思われるかもしれないが、実際はそうでもない。洗脳に睡眠不足を利用するように、眠れていないことは精神にも肉体にも現実的すぎる負荷を与えるのだ。
寝ているあいだ夢を見ることの効果は色んなところで謳われてきたから、わたしが今更言うことでもないだろう。
夢が恋しくなればなるほど、空想の世界に逃げることが増えているのはわたしの不安定さの現れなのかもしれない。
ツバメの話は、子供の頃自分の家に巣ができたことを思い出していた。きっとこんな機会でもなければ一生思い出すことは無かっただろう記憶だった。周りの女の子とは違って生き物が可愛いという気持ちが持てなかったため、ツバメの巣を取り壊したと聞いても可哀想という気持ちが湧かなかった。
大人になっても特に動物を好むことはなく、人間自体を好むことさえ少なかったから、愛情の温度が低い人間なのかとわたしは自分を評価している。そんなわたしも大学に行き、一人で暮らすようになってからは人肌寂しいという気持ちを知った。帰りたい、という言葉が口をついて出た時にああ自分にも可愛らしいところがあるのだと少しの安心と絶望を感じたのだ。なぜなら帰る場所がわたしにはなかったからだ。
帰る場所と言われて想像するのは実家だろうか。高校や近所の公園など、青春の多くをすごした場所だろうか。情に薄く生きてきたわたしは情を返されることも、返されていたとてそれを感知する力がなかった。そんなわたしには「帰りたい」と強く願えるような場所が存在しなかった。
置かれた場所で咲きなさい。でももし、置かれた場所がわたしの場所でなかったらどうだ。
𝐃𝐚𝐲1
今日の紅茶ははちみつ紅茶だ。寝る前の一杯はわたしのルーティンだ。カフェインは体に良くない、そんなことは知っていたが、どうせ眠れないなら好きなものを飲んでしまえと思うのは半分やけになっているということだろうか。二重ガラスの真ん中がぷくっと膨らんだグラスに琥珀の色の紅茶を注ぐのは楽しかったし、はちみつの香りは落ち着かせてくれるから好きだ。
寝香水に蜂蜜の香りを選んだ。これは甘ったるいだけではなく生の湿った木々を想像させるウッディな力強さが甘みを下で支えている。
魔女と契約してしまった哀れな乙女と美に対する執着を、夢を見られるまで毎晩語っていこうと思う。
美しいものを美しいと感じることが美しいと感じるわたしは変なのだろうか。孤独な魂に共鳴するものがあることだけが救いなのだ。
眠れないとはいえうつらうつらとする時間はある。そんな時はぼうっと紙を捲ったり爪を弾いたり、何の意味もない行動を繰り返す。羊を数えることはきっとこういう時間を意味しているのだと思う。ただわたしはその行為に熱中してしまい眠ることはできない。指の皮が痛々しく剥けてきても気にせず爪で弾き続けるのだ。鮮血がじわりと滲んで初めてはっとする。別にこれは美しくなんかない。そんな安っぽいものを美しいと言えばわたしは魔女に罰されてしまうだろう。興醒めだ。蜂蜜の香りが人工的な糊のようにのっぺりと鼻に入って来た。明日はパジャマを洗ってしまおう。香水の香りはふとした時に何かを思い出させるように香ってくるが、それが苦しい時もある。今日は無性に苦しくて何もかもが嫌な日だ。どうせ終わらせることなんて出来ないくせにぎゅっと目を瞑って布団を頭の上までかぶせてしまった。
𝐃𝐚𝐲2
今日の夜は気力もなくペットボトルの水を口に運んでいる。手には何枚もバンドエイドが貼られている。バンドエイドの糊がベタベタとしていて不快だ。それでもこうするのは、わたしは気にしないが周りには赤く皮膚が剥けた指先は不快だと知っているからだ。
昔母はわたしのこの癖を強く非難した。汚くて周りを不快にする行為だと。自傷行為の一環であると知識で得たときはあまりわかっていなかったが、確かに負荷がかかって限界を越えたときは爪で指先の皮膚を引きちぎる癖がよく出るのだ。ストレスが溜まった、という言葉を身につけるまでのわたしはあまりに不器用で、ただ苦しさを紛らわせるために一心に何かにそれをぶつけた。それが何かは判っていなかったから自傷行為という名前をつけられたときに、釈然としないような不思議な気持ちになった。
苦しいという言葉はなんと便利なのだろう。この言葉を乱用するだけでだいぶ気分は楽になる。ストレスを理解したとき、しかし残念なことに、母の真意まで判ってしまった。あの人はわたしに世間体からこの行為を隠させたかったのだ。
愛されていないと言うのは簡単だが、愛を完全に諦めることは難しい。こんな風に母のことを非難しておきながら美しい家族の愛がどこかにはきっと眠っているものだと思っていた。わたしがそれを見つけられていないだけ。ただ、何もかも諦めたふりをしていないと自分が救われない気がしてそうしている。
わたしの手を握ってくれた人がいる。「ストレス」で過呼吸になったわたしの手を何の躊躇いもなく握ってくれた人だ。それはわたしの好きな人になった。見窄らしいわたしの手を取れる人がいるとは思わなかった。だからその日からずっと、初恋の途中なのだ。
今日も眠れない。魔女の呪いだから仕方がない。それでも少しでも目を瞑っていた方が良い。
母は幼いわたしと寝るのを嫌がった。わたしの寝つきが悪くて自分の目が覚めてしまうからだそうだ。どうせ寝られないのだから頑張って寝つこうとなんてしなくてよかったのにね、と当時の自分を笑ってやりたい気分だ。
自分で自分のことをあやしてやること、それが大人のわたしにはできるのだ。ホットミルクは眠れない夜の定番だろう。今日の寝香水はミルクの香りにして、自分の子供心をあやすことにする。
𝐃𝐚𝐲3
早起きは嫌いだが、起きたまま朝を迎えてみると朝が清々しいという気持ちがわかる気がする。結局眠れなかった。チェーンのカフェに出掛けてモーニングを食べることにした。
冬の朝は空気が澄んでいる気がする。いちばん好きな季節は冬だ。勿論雪は綺麗だし寂しそうな木々を眺めながら散歩するのは楽しみの一つだ。でも理由はもっと単純で、わたしが冬に生まれたからというだけのことだった。それでもそれだけで冬の全てが楽しくなるのは例え愚かでも幸せなことだ。
鬱々とするのは冬が多いという。わたしも実際そうだ。傲慢だが、そんな冬が可哀想だと思う。わたしの愛する冬は、そんな扱いなのね。可哀想に、わたしは大切に思い続けるよ。そんな風に思うのはきっと冬がわたし以上に可哀想な存在だと思っているからだろう。内心見下して、そんな戯言を言う。冬からしたらいい迷惑だ。
オレンジジュースとピザトースト。昨晩の香りは意外と残っていないものだった。素朴で変わらないトーストも甘すぎるジュースもそれだから一層良かった。記憶に残らない程度がちょうどいいときもある。きらりと目線の先に光が落ちた。太陽が登ってきている。トーストの欠片が机に落ちていて、太陽光がそれを照らすようになり、それから追い越した。背中が暖かいが、足先には冷たい風が吹いているので心地よかった。
嫌だな、と不意に思った。冬はこんなにも美しく、太陽の光をさらに輝かせ、ありがたいものにしてしまう。可哀想なのはわたし一人だ。ゆっくり本でも読むつもりで来ていたが居た堪れなくなって、一気にオレンジジュースを飲み干した。なんでこんなときだけ甘さに人工的なものをしまうのかわからなかった。太陽の光だけでいい。冷たい風の匂いだけでいい。放って置いてくれる冬はわたしのことなどどうでも良いと思ってくれている。それが落ち着いた。
魔女は冬のように冷たい指先をしていた。そっと頬を風が、いや、魔女が撫でた。お前の命が欲しい、と。
𝐃𝐚𝐲4
心臓の音が昨日から早鐘のように打っていて、本当に命を取られてしまうのかと思った。確かに今朝は何より綺麗な朝だった。ひとりでいることが誇らしくなるような孤高な時間だった。それにしても代償が早すぎる。きっと眠れていないことで身体がおかしくなり始めているのだと自分を納得させた。
魔女に対して善行でなんとかして貰おうというのも変な話だが、部屋を片付けることにした。ワンルームでそう広くはない。掃除するのには良い家だ。
初めてのプライベートな環境がこのワンルームだった。子供の頃、わたしには部屋が与えられていた。それでも過保護な母はわたしの部屋を調べ尽くしていたから、秘密なんて一つも持てなかった。日記も、手紙も、本も。この部屋に来てから持てた「自我」は自傷行為だけではない。
ここはわたしの城だ。でも、ここしかわたしの空間はなかった。もう長い間母とは連絡を取っていない。当然だ、家を遠く離れた娘は家の顔に泥を塗ることは無くなった。母の中ではわたしはもう大人になった。面倒を見る必要は無くなったのだ。
掃除が進むと見えていなかった床が見える。大分本を散らかしていた。あの頃の母が居たらきっとこっぴどく怒られていたことだろう。でも今は、そう思いながら不思議な気持ちになる。あんなにも求めた自由を手に入れたら今度は束縛が恋しいのか。こういう傲慢さが魔性のものを惹きつけてしまう人間らしさなのか。
香水棚を整理しようと机の上に香水を並べた。香りは何より記憶に残る情報らしい。実際わたしもいくつか香りで思い出すものがある。いちばん綺麗な記憶を書き残しておこう。好きな人との記憶だ。
なんてことはない。ただ、君の香水はなあに、と聞かれたのだ。いい香りだ、と言われたことはすごい嬉しかったし、もしも同じ香りを纏うことがあったら、と思うとどきどきしてしまった。でも、わたしはなんの香水か答えなかった。答えて忘れられてしまうことが嫌だったし、こうすることで永遠になるような気がしたのだ。強気なスモークチェリーの香りが彼のお気に召すことくらい、この一生分の片思いで判っている。どうか一秒でも永く覚えていてもらえるように、この人に初めての隠し事を持った。
この香水は何より大切なものになった。四角いボトルを部屋の無機質なライトに透かしてみた。深い赤。ワインよりも宝石に近い透明のそれは、きっと魔女に魂を売る前から変わらず世界一美しいものだった。
𝐃𝐚𝐲5
嫌な夢を見た。正確には寝ていないだろうから、嫌な妄想をした、というところか。母が唯一持っている香水の話だった。ダイヤモンドの形をしていてピンクの液体が満ちている。わたしは母とそれを選んだ。わたしが香りを好きになった思い出の香水で、ミニチュアが付いてくることも子供心をくすぐられた。いい香り、お母さんに似合う。そう無邪気に褒めた。母は当然のようにそのおまけを弟に渡した。お母さん、大好き。そう言う子供の自分の顔が走馬灯のようにゆっくりと流れていった。
これは半分実話だ。香水を買ったのは本当。ミニチュアがあったのも本当。ただ、その行方は現実では判らないのだ。いちばん嫌な妄想をしたような気がした。ピンクの香水は母の愛情の暗喩であるように感じてしまったのだ。
もしかすると魔女はもう五日目にして代償を取りに来たのかもしれない。自分のいちばん嫌なところを突かれた。愛を感じる力が弱いことは自分が過去死を強く希った頃に苦しんだ話だった。あの頃の感情まで思い出したら、わたしは自ら命を差し出してしまうかもしれない。
昨日片付けた棚から世界一美しい香水を取り出した。それを一振りした。幸せな記憶だってまだある。まだこれを美しいと思える。まだ生きられる。
𝐃𝐚𝐲6
昨日から何かがおかしくなった。冬の陽気も大好きな香りも美味しいご飯も、もやがかかったように見える。曇ったレンズが心にかかってしまったようで、綺麗なはずなのにいまいち何が何だか判らない。
助けて、と声が出るが、誰に向けられたものか判らない。手を差し伸べてくれる人などいないのに、どうしても叫ぶのをやめられなかった。ツバメは帰る家がなくともまた家を建てる仲間がいて家族がいる。それよりも哀れなわたしは孤城はあれど崩壊したところで誰も何もしてくれない。
香水瓶を欲しいと言えばよかった。わたしを見てくれていることを行動で示して欲しかった。日記に書いた夢を子供の一時の妄言だと馬鹿にしないで欲しかった。今だってまだ大人になりきれないくらい大切な夢だ。好きな人の行動を母に伝えたとき、キザな人だねと笑わないで欲しかった。何より救われたのに、わたしを含め全部を否定されたようで悔しかったし嫌だった。
ここで気づいたが、叫んでいるつもりだったが、少しも声になっていなかった。声の出しかたを忘れてしまったようだ。いや、叫ぼうとしたこともなかったのかもしれない。音も出せずもがき苦しむわたしはとてつもなく醜い存在だった。綺麗なうちに終わらせるべきだった。そう思うと涙が一筋流れた。これだけは清く美しい一滴だと感じた。張りぼての上に乗っかる脆い美しさを精一杯享受して、それで満足ですという顔をしていた自分がさらに大嫌いになった。
もう二度と起きられなくてもいい。美しいうちに終わらせて。眠れるはずもないが顔を手で覆った。真っ暗な視界だけは何にも言わないでくれるから少しは落ち着いた。
𝐃𝐚𝐲7
随分と久しぶりに寝た。これは本当に七日目の朝、起きて皆と同じように日記を開く普通の朝。泣き疲れてぐっすりと寝てしまったらしい。外から鳥の鳴き声が聞こえる。どうやら健康的な時間らしい。
わたしは母親に電話をかけることにした。諦めきれないわたしはきちんと母の電話番号を登録していたから、あっさりと電話をかけることができた。この話は長くなるからまた後日日記に書くことにする。
魔女の代償は命ではなく、そもそもわたしの願いを叶えるつもりなどなかったのだ。魔法にかけられたような与えられた美しさに浸るのは楽で、気分がよかった。わたしは自分から求める勇気を持たなくてはならない。返報性の原理がどこまで正しいかは分からないが、わたしはそれを信じて求めなくてはならない。
わたしは日記をそっと閉じた。自分の話ながらどうも面白い。懸命に生きようとするわたしが美しくて仕方ない。それ故にいつもこんなに夜遅くまでこうやって過去を眺めては懐かしい気持ちになるのだ。
ここから先は七夜どころではない。千にも及ぶかもしれない夢が待っている。流石に寝なくてはいけない時間だ、とベッドサイドの電気を消した。