砂糖と紅茶と沈没船
我々は、生まれた時から一人残らず沈没しゆく船の中にいる。
最近読んだ本の中に、
“みんな最後はどうせ死ぬのだから、全員墜落している飛行機に乗っているようなものだ。その墜落しゆく飛行機の中で、高いブランド物の服を見せびらかしたり、有名になろうと頑張ったりしている光景が、なんだか異常に見えた”
みたいなことが書いてあって、
ああ、そうなのか、なるほど、確かになと
思ったわけじゃ。
我々は全員、80年〜90年かけて少しずつ墜落してゆく飛行機、あるいは沈没していく船の中で一生を過ごしていて、
最後は全員死ぬのである。
死亡率は100%なのじゃ。
だったら、その船が完全に海にとけきるまで、何をしていればいいのじゃろうか?
われわれに、果たしてブランドもののバッグを買うために金を稼ぐ暇はそもそもあるのじゃろうか?
われわれに、果たして“いいね”をもらうために自分を取り繕う暇はそもそもあるのじゃろうか?
わしが中学生くらいの時に読んだ何かの本の中に、
“人生とは、墓場までの道中に起こった、愉快な出来事のことである”
というような一説があったのを微かに覚えておる。
あの時にはその一説の意味がいまいちわからなかったのじゃが、
今は少しわかるような気がする。
わしは、この沈みゆく船の中で、
この落ちゆく飛行機の中で、
墓場へ続く道のど真ん中で、
何をするのが一番良いのじゃろうか?
何になればよいのか?
とりあえず言えるのは、今こうやって思っていることをキーボードを叩いて具現化する作業は、嫌いではないということだけじゃ。
だからひとまず、紅茶を淹れよう。
こういう面倒なことは、紅茶をひとくち飲んでから考えればよいのである。
“人生は何もしないには余りにも長すぎるが、何かをするには余りにも短すぎる”
という斜に構えたかっこいい言葉もわしは聞いたことがあるのじゃが、
多分、「何も」というには何かしすぎていて、「何か」というには何もしていなさすぎるようなこと、
例えば紅茶を淹れるくらいの、そして淹れた紅茶に角砂糖をいくつか落とすくらいの暇はそこそこあって、
そういうことをしながら墓場までの暇つぶしをすれば、
長すぎず短すぎない、ちょうどいい尺の人生になるのではないのか?と思っているのじゃ
さあ、紅茶を淹れてこよう。
もちろん角砂糖も忘れないようにするのじゃ。