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17年間勤めた公務員を辞めた本当の理由

こんばんは、キヅキ屋ヒデシです。

世間では公務員ほど安定している職業はないと言われています。
実際その通りだと思います。
年功序列ではあるものの、普通に勤務していれば、半年や1年単位で微弱ではあるものの給料が上がっていきますし、退職金も確保されています。
健康保険も共済組合がある社会保険ですし、年金もいわゆる二階建て。

安定オブ安定。

どんな大企業に入るよりも堅いんではないかと思います。
いろいろな意味で「お堅い仕事」。それが公務員。

大企業を知らないのでなんとも言えませんが・・・

辞めたいと言った時にはもちろん周りに止められましたし
中間管理職になりたてだったので「これからじゃん」とも言われました。

でも辞めました。

辞めてから、一回も後悔しなかったのか?と言われたら
もちろん後悔もしました。

なぜなら辞めてみないとわからないこともたくさんあったからです。

辞めるのに悩まなかったのか?と聞かれたら
もちろんたくさん悩みました。

どれくらい悩んだかって言われたら
多分5年くらい悩んで、2年くらい決断する準備をしていました。

では「なぜ」辞めることにしたのか?

簡単にいえば
心理的ストレスが溜まることを「コップの水が満水になった」という表現があると思いますが、それに近いのかもしれません。
あえて例えるなら
「刀にするために熱した鉄を叩いて叩いて叩いていたら、刀になる前に熱が冷めてしまった」といった感じです。

全部は語りきれないと思いますが
そんな「人生の決断」の話をしていきます。



悩んだ5年間の話

30歳を超えた頃から
「このままこの仕事をしていていいのだろうか?」という悩みが生まれはじめました。そこから5年ほどこの悩みと向き合っていくことになるなんて、その時は想像すらしていませんでした。
ただ、この悩み。世代的にも「あるある」であることは辞めた後に知りました。

この悩みが生まれやすいのは恐らく
「濃い10年間の下積み20代」を過ごしたから。

そこで得た知識や経験や技術が悩めるほどに積み上がったからこそ
生まれた苦悩だったのだと思います。

もちろん人によって、時代によって、過ごした時間の密度によって
この苦悩と向き合う瞬間が早く来る人もいれば、遅く来る人もいると思います。

私の場合
この5年間の苦悩中にしたことは
「とにかく、外の世界を見てみよう」でした。
具体的には同業の他市町村の職員と話ができる研修や訓練会などに積極的に参加しました。
また、同業だけでは偏りがあると思ったため、「副業ブーム」も相まって、他業種の方とSNSを通じてつながることが割と簡単にできたため、そこでご縁のあった方々数十人に話を聞いてみたりもしました。

結果として同業から出た多くの声は
「どの組織でも同業であれば、悩みの大きさや形は違えど悩みの種は同じ」であり
他業種の方から得た多くの声は
「公務員は安定しているけど、先が見えすぎていて面白くないよね」でした。

他業種の方からの声は「皮肉」も混ざっているのかもしれませんが
実際働いていた私も「確かに面白くはないな〜」と思っていたので、当時は納得の回答ではありました。

もちろん、悩んでいたからと言って、プロとして仕事で手を抜くことなんてありません。それとこれは話が別です。むしろ、同じ想いを抱える同業の方と接する機会が多かったので、より一層頑張っていたと思いますし、悟られないようにしていたとは思っています。

ただ、悩んでいた5年間でちょっとした「不思議な経験」もありました。

私が「辞めたい」ことを職場で話すことなんてなかったのですが
なぜか「この先続けていくかどうか悩んでいる入庁5年未満の職員」から、この仕事の未来と転職するかどうかの悩み相談をよく受けていました。
もちろん、こっそりです。

当時はなんとなく「辞めたい気持ちが引き寄せているのかな〜」なんて思いつつも、快く相談に乗っていました。
相談に乗る時は、相手の気持ちに寄り添って導くように話を進めていました。こちらの意見は聞かれたら答える程度。

そんな感じで相談をしてきた職員は「若さ」を兼ね備えているからか、話しをした年にみんな離職していきました。

そして私は、離職していく後輩を見送るたびに「羨ましいな」という気持ちが膨らんできている自分がいることに気付きはじめていました。

2つの小さな事件から

5年も悩んでいたのには3つの理由がありました。

1つ目は、自分が結婚をしていること。
相手を理由にするつもりはありませんでした。むしろ長年「妊活」をしていて、補助金制度を使ったとしてもある程度のお金が必要なこともあり、転職を考える暇がなかったというのも本音ではあります。

次に、「手に職」というような、これと言った社会的に価値がある資格やスキルがなかったこと。
「消防士」と世間では言われますが、特に必要な資格があるわけでもありません。もちろん積極的に仕事に関わる資格はたくさん持ってはいました。
危険物取扱者、消防設備士、大型特殊免許、潜水士、小型船舶。。。
他にも挙げればキリがないほどの資格や修業証明はありましたが、そのほとんどが「その仕事」だから意味をなすものばかりでした。

最後が一番重要かもしれませんが、仕事を辞めてまでやりたいことが見当たらなかったことでした。
今の仕事以外に自分の「情熱のありか」が持てそうなものがありませんでした。それは、自分のことがいまいちわかっていなかったことも1つの原因だということに後から気づきました。

そんなことを自覚しながら、のらりくらりと「自己啓発」や「自己投資」「副業としてマネタイズはしないものの、スキルとして身につけてみたいもの」を探しつつ、自分の「市場価値」が上がる努力をしていました。

そんな時に小さな事件が起こります。

1つ目は身内からのカミングアウトによる動揺でした。
突然、どうやら自分の親は「毒親」であり、幼い頃に育った環境(家庭)は「機能不全家庭」の可能性があることを妹から聞きました。

最初は「何を言っているのか、さっぱりわかりません」状態でした。
しかし、自分で調べてみたり、関連図書を読んでみたり、カウンセリングしてみたところ、、ようやく理解が追いついてきました。

そして理解した時に
「これまでの人生に「自分」の軸はあったのか?」
「自分で選択してきたつもりだけれど、嘘だったのか?」という疑問が湧き上がり、その事実と向き合っていきました。

ほとんどの選択に「自分」はなく「他人(親)」が決めたことで人生が動いていたことに驚愕しました。そして、自分で選択したようで親に選択させられていたことがほとんどで、自分が実は「こうなりたかった」なんてことをうっすら思い出した途端、涙して「どこにもぶつけられない後悔」をしたことを今でも覚えています。

それと同時くらいに
自分の働いている職場環境、組織を疑うような事件が起こりました。

申し訳ありませんが、ここで詳しく言える様な内容ではないので割愛させていただきますが、これはこれで「ますますここにいる意味あるのか?」と思うような事件でした。
簡単に言えば「この組織はどれだけ自分が動いたとしても変わらないな」と思うような「上層部」の闇みたいなものを感じたのです。

この2つの「小さな事件」をきっかけに
「自分はこの環境にこのまま身を置いて終わる人生は望まない」と
強く強く思うようになりました。

準備の2年で

coming soon・・・

決めるのは自分ですが・・・

この後の「準備の2年」を書こうと思ったのですが、今回は一旦まとめます。
近々、書き足しますので気になる方は「スキ」を押してチェックしておいてください(笑)

今回のまとめです

どんなに辞めることを悩んでいて、周りに相談したとしても
最後の最後の最後に決めるのは「自分」です。

決めた最後の結果だけ見たらたったの3文字「辞めた」です。
でもその裏に「どれだけの壮大な時間」悩んだのか
「どれだけ色々な施策を試したのか」
「行動の選択と集中の過程」なんてことは、当事者である自分と本当に親しい人2〜3人くらいしかわかりません。
そして多くの「辞められた人」は、本当の意味で「わかってもらおう」なんて考えてはいないでしょう。

なぜなら「自分の人生の責任の所在」を誰かに渡したくありませんからね。
これは誰だってそうだと思うのです。
むしろ、責任の所在を誰かに握られたくないから辞めるパターンも多いかもしれません。

「決めること」は小さな決断を常に意識して自分ですることを普段から練習していないと、なかなか大きな決断はできません。
あるいは、今回の私のように「時が満ちる」まで時間がかかるのを待つしかありません。それでは遅いと今の私は思います。

今の私なら、誰かに相談するくらいなら
自分が納得するほどの「辞める理由」を自ら動いて作り出す
あるいは
「定年退職したとしても叶うかわからないほど大きなビジョンを今の仕事に持つための熱量をとりにいく」様な行動をします。

どちらにしても「熱量」は大事なキーポイントにはなります。

あなたの熱心で熱気で溢れた、熱意ある仕事や興味のあることに対する情熱はどこにあるのか?何をしている時に感じるのか?誰といたら高まるのか?をまずは考えてみることをおすすめします。

それでは、また。



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