イスラエル滞在記
2023年
10月15日(日)
目的地に無事到着。大使館・領事館の人たちに本当に感謝。定期便が再開されたらすぐにでも戻りたい。イスラエルの同僚たちに、報告と応援のメッセージを送る。一旦これにて更新停止。
10月14日(土)
現地の方のご厚意で、空港までのタクシーを予約してもらう。現金がなかったので少し貸してくれた。去り際に涙が抑えられない。搭乗してすぐに、サイレンが聞こえる。シェルターに逃げようもない。ただ祈る。
10月13日(金)
シェルターで起き、研究室で一人で実験する。ほぼ誰もいない。インド人がかろうじて残っているが、間もなく帰るらしい。
お昼は友達とサラダを作って食べる。夜、別の友達の寮でディナーを食べていた。音楽をかけて、つかの間の休息。
部屋に戻った友達が血相を変えて戻ってきて、遠くからサイレンがするという。うちの町にはなっていないが、念のためシェルターに行くかと思った瞬間に、サイレンが鳴る。廊下に駆けだすと間もなく頭上で爆発音二回。光は見えなかった。後ろから学生が叫びながら飛び出してくる。階段が暗かったのでスマホのライトを取り出す、これでロスタイムが起きたと思って、階段を下りてからシェルターまで一直線に走っていたところで、転倒。手と足をすりむきながらシェルターに駆け込む。入ってみると、腕からも出血している。近隣の方が直ぐに救護スタッフを呼んでくれ、消毒とバンドエイドが完了。これは何か悪いサインだと思い、これ以上の残留を断念。自分のような避難訓練を受けていない素人がいるせいで、イスラエル人の物資や時間を奪ったり心配をかけたりしてはいけないとも思った。すぐに大使館にメールをする。チャーター便の予約締切は過ぎていたが10分も経たないうちに搭乗可能との連絡が来る。次の目的地までのチケットをスマホからかう。各所に電話して状況報告する。
10月12日(木)
空襲警報なし。明日から週末なので、何が起こるかわからない。
一旦、研究所内のシェルターに寝泊まりすることにする。
一緒に実験している学生が来週から予備役に行くらしい。彼はそれを望んでいた。
10月11日(水)
大学に来てみると、ヨーロッパに疎開したはずの学生二人がいる。フライトがキャンセルになって明日再挑戦するらしい。同僚の友達の弟がなくなったとも聞く。共同研究者が来て議論していったが、途中から何となく目が潤んでいた。教授の表情も浮かない。だんだん研究室の雰囲気が暗くなるのがわかるが、実験はうまくいっている。
クリーンルームで作業中に警報が鳴ったので、クリーンウェアのままシェルターへ。現地の日本人のお宅で晩御飯をごちそうになる。もう帰ろうかという時に警報が鳴りシェルターへ。
10月10日(火)
静かな夜だった。水とクッキーと豆の缶詰を買っておく。
その後は一日中実験室で過ごす。
途中で一度爆音が聞こえて、アイアンドームらしき航跡と小さい雲が見えた。シェルターから出たころには消えていた。
18時前になるともう居室には誰もいない。
もうひと踏ん張りしたいところだが、今日は
10月9日(月)
朝から大学に。ほとんどの学生が来ている。
イスラエル人の学生がいろいろ議論している。
研究所内のシェルターを案内してもらう。
昼食前にサイレンが鳴ったので研究所内のシェルターに避難。シェルター内で集合写真を撮った。
ちょうど離職してインドに帰国するR君の送別会。ときどき戦闘機の轟音を耳にしながら、ささやかにケーキで祝う。
実験から居室に戻ると、みんなフライトチケットを見ている。
うちの研究室では、非イスラエル人の学生はほとんど帰国/知り合いの研究室に疎開するらしい。女子学生が泣いている。色んな友達から安否確認されるのがつらいらしい。
研究所内の日本人とつながったので夕方に会う。皆残留とのこと。
震災の時よりまし、という言葉が腑に落ちた。
夜になると雷雨が近づいてきそうだったので、教授が車で家まで送ってくれた。落雷の方が脅威かもしれないと思う。
21時30分。久しぶりに、全く騒音がしない静かな時間が訪れた。いつまでもつだろう。
大学から、非常時に備えた装備の連絡が来たので、リュックにいろいろと詰めて玄関に置く。
夜風に当たろうとベランダに出たら、体長10cmに届かんとする巨大ゴキブリが壁伝いにベランダに入りかけている。こちらの方が目下差し迫った脅威。水をかけて階下に流し落とす。
22時30分。急に爆音が鳴って慌ててドアに走る。警報はならないなと思ったら、大雨が降ってきた。
隣の部屋のインド人は明日帰国するらしい。物資の引継ぎだろう、何人ものインド人たちが訪れているよう。
今夜はズボンをはいて眠ることにする。
10月8日(日)
寝てる間には特に警報もなく、静かな朝を迎える。
教授の奥さんが思いつめた感じでニュースの感想を語っている。
献血に行くらしい。もともと低血圧なので良くないと教授が制止するも、最終的に説得し、そのまま出ていった。
教授と一緒に研究所へ向かう。中国人同僚J君の他誰もいない。
朝からAFMを撮る。ちょっと慣れない機能を使うため、てこずる。
夕方にJ君が帰宅。20時、21時、23時はロケットの確率が上がるらしいので、それまでに帰るよう言われる。
その直後に、イスラエル人学生のY君が来る。ヘリウムの残量を確認しに来たらしい。旦那さんが予備役に召集されたので、Y君はハイファの実家に帰るらしい。他の学生も、兄弟が予備役に行ったので、その家族の面倒を見ているらしい。今回の件、全くの奇襲で人質もとられたこともあり、イスラエル人には相当な危機意識があるようだ。
19時前に、ようやく良いAFM像が取れた。グループのワッツアップに報告するとみんな喜んでくれた。急いで帰宅する。いつ警報が来るかしれないので、すぐにシャワーに入った。
20時すぎ頃から、遠くで地響き/爆音が時々聞こえる。このあたりにはサイレンはならない。
23時40分、そろそろ寝るぞと言うときにサイレン。3分ほどでやんだが近くで爆音がいくつか聞こえた。その後も戦闘機やヘリのような音がずっと聞こえる。
10月7日(土)
朝6時半、教授からの電話で起きる。
サイレンが鳴っている。空襲警報らしい。
近隣の寮生はみんな廊下に出ている。
身近な人々にラインで報告。廊下で待機。
アイアンドームが迎撃する音らしく、地響きがする。
波状攻撃のようで長く続いているので、階段に座り込む。
ここが一応安全らしく、みな階段にいる。
波状攻撃の隙間を縫って部屋に戻り、さっと用を足し、リュックに水や食料を詰め込む。長期戦に備える。
一時間ほどして、シェルター開放の連絡があったので、隣人の部屋(シェルターを兼ねている)に転がり込む。初対面の女子学生なので気まずい。
サイレンは鳴りやまないが、隣人がパンケーキを作ってくれた。ごちそうになる。食べ終わるころには静かになったので、自室に帰る。
ボスから断続的に安否確認の電話がある。
学生も、ひどく心配してくれる学生や、ようこそイスラエルへと言ってくれる学生など様々。
しばらく寝る。夕方に日本の友達と少し電話。
戦闘機やヘリが飛んでいる。
教授と学生がしつこく誘ってくれるため、テルアビブの学生宅に寄せてもらうことにした。教授が車で送ってくれるとのことだが、家を出る直前に再度空襲警報。テルアビブまで行く道中が危ないので、レホボトの教授宅に止めてもらうことに。ワインを飲みながらネットフリックスを見る。その途中にも数回警報があり、シェルター部屋に逃げ込む。
教授の奥さん、息子さん、娘さんが皆活発に議論している。
23時ごろに就寝。シェルター部屋が寝室も兼ねているので、そこに止めてもらう。深夜、怖い夢を見て叫んで目が覚めた。これは戦争の怖さというより、出国前に心霊番組を見すぎたせいと思う。教授家族に申し訳ない。
10月6日(金)
週末なので、午前中は日本とスイスとミーティング。
夜は、インド人の友達とディナーに行く。
10月5日(木)
実験のためバー・イラン大学へ出張。
上手くいった。
10月4日(水)
レホボトで実験する。
装置の不調が治ったので明日の再出張が決まる。
10月3日(火)
実験のためバー・イラン大学へ出張。
装置が不調でレホボトに帰る。
10月2日(月)
クリーンルームのイントロを受ける。10分程度。
スイス時代の友達が電話してくれた。
10月1日(日)
始業日。一番元気な学生がハグで出迎えてくれる。
教授と色々ディスカッションして、さっそく研究室見学などする。
9月30日(土)
自宅でダラダラして過ごす。
何人かが誕生日メッセージを送ってくれる。
9月29日(金)
近所のスーパーで買い出しをして過ごす。
9月28日(木)
16時の成田→テルアビブ便で渡航。
チェックイン前に約30分の尋問。
搭乗前に手荷物検査。
飛行機のドア前でチケットの検査。
深夜23時にテルアビブ空港着。
入国の列がごった返していたが、整理員の兄ちゃん(入国審査官ではない)に学生ビザを見せたら一瞬で通過チケットをくれた。
たしかタクシーは現金だったと思い、2万円を換金。
カウンターのお姉さんが、この数字を日本語で何というか尋ねてきた。
深夜、寮に到着。そのまますぐ眠る。
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