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アマミアンディアスポラ──序その二

 新年もなんとかあけましたが、旧年中はまことに選挙イヤーで、ご承知のとおり、7月7 日の都知事選は石丸伸二という新手のネオリベラリストを招来するも保守層を押さえた小池百合子の順当勝ち、10月27日の衆院選はそのわずかひと月前に開催した自民党総裁選で高市早苗をかわした石破茂が大敗を喫し、米国時間11月5 日火曜日の大統領選はバイデンの上位互換として颯爽と登場したハリスが失速しトランプの軍門にくだったものだからおそろしい。一説には、ハリスが黒人男性の支持を集めきれなかったとも、中絶の権利や民主主義擁護、環境保護などの論点を十分に争点化できていないせいだともいうが、真相はおそらく複合的で構造的な、そのじつどこか感情的な領野に深く根を張るものであろう。テレビの話で恐縮だが、大統領選がらみのニュース特番で、ペンシルベニア州の労働組合員が、民主党支持の組合の方針にさからってトランプに入れるかも的なことを匿名で述べていたが、そのようなことを本連載の第1回でふれた1983年の第37回衆議選の奄美群島区の投票所で試みようものなら、まずまちがいないく、投票所を出る前にシマ中の話題になっている。その確度は南海日日と南日本新聞の出口調査をしのぎ、速度において鹿児島テレビや南日本放送の追随をゆるさない、量子もつれもかくやというほど即座にしれわたる。そのことには狭いシマだからね、という嘆き節もあれば、ワッサンこと(悪いこと)しているわけでもないんだから堂々とすればいいという無記名投票の制度の主旨をご理解いただけていない意見もあった。たしかにだれに入れようがそれはそのひとの勝手である。そのことで臆することもない。むろんそれを理由に一方が他方を排除したり迫害したりしてはならない。民主主義とはそのようなものではないからだ。この小学校も高学年になると学校で習うことが現実世界ではしばしば逆説として機能することを、そのころ選挙権をもたない11歳の私はいまだ理解していない。ただ敵を焼き尽くさんばかりに苛烈な選挙戦が丘陵のように丸みを帯びた頬の表面を火照らせるばかりである。
 この年の奄美群島区では49,643票を獲得した保岡興治が48,538票の徳田虎雄をくだしている。票差にして1,105票。553人寝返ればひっくりかえる僅差であるからには一票の重さは筆舌に尽くしがたい。いきおい監視の眼も厳しくなる、その眼を大極に転じると、1983年の12月の衆院選はそのふた月前の10月12日のロッキード事件に東京地裁がくだした田中角栄の実刑判決を受けたもので、田中判決解散の俗称がある。多言は要すまいが端的に述べると、ロッキード事件とは1976年に発覚した米国の航空製造大手による旅客機の受注をめぐる一連の汚職事件の総称で、総理経験者の逮捕という未曾有(たしか麻生太郎氏は総理の座にあった時分に「みぞゆう」と斬新な読み方を提示されていたはずだが)の事態に、弁護士資格をもつ興治氏は被告弁護団の一員として無罪の論陣を張っており、その点において1983年の衆院選は興治氏には逆風もあらわな選挙戦で、虎雄氏の勝機もまたそこにあったやにいまして思うが、渦中のひと角栄氏が地元新潟で圧勝したように、わが国の政治は倫理や正義でたやすくわりきれるようなしろものではなかったようである。
 むろん結果だけみれば、1983年の選挙は36議席減らした与党の敗北で、保守系無所属の追加公認でかろうじて過半数を維持した自民党は常任委員会での多数派確保を目し新自由クラブと統一会派を結成した。いわゆる55年体制下での初の連立政権の樹立だが、その原動力が政治倫理とりわけ政治とカネへの国民の怒りに起因するのは2024年の衆院選の顛末をまのあたりにしてきた身にはまことに感慨深く、また十年一日の感もあらたにする。
 いや、四十年一日か。いずれにしても何十年も前のことをほじくりかえし四の五のいう私とて日本の政治状況と同じく進歩らしい進歩もない。そのうえこのときの選挙については虎雄氏の戸別訪問は憶えてはいても、結果も、期間中の活動の模様も、そもそも争点すら定かでなかった。後知恵による検証だが、しかしどちらの陣営の勝利でだれがいかにいい目をみるか、腹の底を探り合うようにたいがいを睨めつけ合う大人たちの、顔に吹きかかる息の生臭さはいまも記憶の底にこびりついて離れない。「実弾が飛び交う」とは買収の隠語らしく、私は直截その現場に居合わせたことはないが、実弾なるものがもしあのころ飛び交っていなかったのだとしたらそっちのほうがどうかしている。薊と芒が陸側を、砂蔓が海側を縁取り、ドブ川をレフト線とみなした浜辺の野っ原で野球に打ち興じるほか能のない子どもらにもそのようなことはとっくにお見通しであった。

 いま眼下の青木理氏の『トラオ』に以下の一節がみえる。

 徳田の地元選挙参謀を長く務めた徳之島の元町議も、悪びれる風もなくこう振り返ってくれた。「島では選挙を『第四次産業』っていうくらいだからね。選挙の時、私はいっつも塀の内側に落ちるか、外に残ることができるか、そういうギリギリの闘いの連続でしたよ。カネ? 町長選のレベルで最低1億は動いたかな。それに何と言っても徳田さんはね、ちょっと狂ってないかと思うような凄まじさがあって、そこがまた魅力だったんだな。いまはもう、そんなこともなくなってしまったけどね」

青木理『トラオ』(p130)

 町議選の辻立ちで立候補者が「あいつはキチ〇イですよ」と対立候補を大音声で罵倒してまわるくらいなので、ひかえめにいっても当時の島は全体的に狂ってはいた。私は汚いことばには馴れっこだがった、内地から来た教師がその様子を遠巻きにするのを眼にすると恥ずかしくてならなかった。学校には鹿児島本土から赴任してくる先生が何人かいる。鹿児島は離島が多く、公務員である教員は赴任地が島になることもある。多くのものは来たくもない島にしぶしぶやってきて3年ほどのノルマをやりすごして本土に戻る。若い先生が多いのは手当がつくのと家庭をかまえると動きがたいからであろうか。いきおい島には経験のあさい若手かどこから島に流れ着いた流木のような教師の巣窟となっていた。私は口さがない書き方で恐縮だが、あのころをふりかえるとそうとしかいいようがない。教育における格差はかつては厳然と現在は隠然と確実に存在する。むろん近代の教育制度なかりせば、島の人間の蒙もひらくまい。私は方言札こそなかったが、シマグチ(方言)を使わないようにしましょう、と校内で努力目標にあがっていた最後の世代である。それが80年代の声を聞いたあたりに、郷土の言葉を大切にしましょうと反転するのだから、教育とは戦前、戦中、戦後を問わずいい加減なものだと思いもするが、それはさておき、シマグチを駆逐したい方針の背後にはおそらく未開のことばには未開の精神が宿るという近代の理念がある。それを保護するのも別種の近代の理念なのだが、そのことは追ってふれるとして、上の述べたように町議選の候補ですら暴言を喚いてわるびれもしないのだから、ひとまずはさもありなんというべきか。なにせ自身のことばの真正性を担保する子どもらの決め台詞が「かきゆみ(賭けるか)!?」なのだからわがシマには神も仏もないというべきか、あるいは偶然が全的に支配する神のみの世界、のるかそるかが常態の神頼みの世界とみなすべきか。
 私は高校で島を出るまで国政と地方選を問わず、さらに数度、選挙を体験したはず──未成年なので選挙権はない──だが、政策とか財源とか展望とか、それらにもとづく政策論争のたぐいは小耳にすら挟まなかった。

アイデンティティポリティクスウォー──自己同一性政治戦争

 そもそも虎雄氏と興治氏は島をどこにみちびきたかったのか。
 そのように考え、当時の情勢を保守とリベラルの対立の図式にもとづき腑分けしようにもなかなかうまくいかない。
 1983年に口火を切った保徳戦争を例にとっても、「保」こと保岡興治氏こそ与党自民党の現職だが、「徳」である虎雄氏は野党第一党の社会党の所属ではない。したがってわかりやすい保革の別もない。理念として掲げるは過疎地の医療の充実。具体的な中身は前回も記したがいまいちど確認しておく。青木理氏の『トラオ』の抜粋要約である。

年中無休・24時間オープン
急患は断らない
患者からの贈り物は受けとらない
入院補償金や大部屋の室料差額、冷暖房費は無料
健康保険の3割負担も、困っている人は免除する

 ──等々患者にはけっこうこのうえないが、これらのスローガンを掲げて全国展開を目論む徳州会に「47都道府県医師会の会員をもって組織する学術専門団体」(公式ホームページより)である日本医師会から注文がついた。「徳田の訴える「医療革命」なるものは、既存の安定した地域密着型の医療体制を破壊する所業であり、いわば病院の「スーパーマーケット化」を推し進めるものにほかならないという反発」(p138)がおそくとも1970年代末までには週刊誌の誌面をにぎわせるまでになっていた。多くは虎雄氏を旧態依然とした秩序に挑む医療界の風雲児とみなし援護射撃するもので、その一点で虎雄氏は革新派であったが、ニュアンスとしては新興勢力、選挙運動の手法や政治的信条は現在の新自由主義の先触れであったと私は考える、このことについてはのちにふれるが、そこには暴力と放縦さの臭気が漂っている。であればその時点ですでに4選を遂げている自民党の興治氏がいいかといえばそうではない。
 わが家は長男である私が生まれた翌日に自民党総裁の座についた男にあやかって、私を「角栄」と命名しようとしたほどの一家総出の自民党支持で、私はもし私が角栄であったなら、改名するか亡命するか列島を改造するかの三択だったので、すんでのところでふみとどまった両親には感謝しかないが、しかしわが子に角栄とはいったいいかなる了見か。そのことを知ったのはずいぶんあとで、アージャ(父)はすでに死んでいなかったので父の口から直截にはたしかめられなかったが、おそらくそこには終わりにさしかかった政治の季節の徒花のごとき出来事の数々への父なりの恐懼があった。私が生まれた年のはじめ、テレビの浅間山荘の中継に固唾をのんで見入っている腹に私をかかえたアーマ(母)の背後に立った父は、そんなもんをみていると(生まれてくる)子どもがアカになるぞ、と見合いの時分にはついぞ耳にしない険のある声音でそう吐き棄てた。結婚前の1967〜69年に興治氏の父(保岡武久)の秘書として国会内で学生運動に面前したアージャは彼より若い世代の理想に燃える熱のようなものにおそらく嫉妬にちかい嫌悪をおぼえ、後年私が大学に進学するさいにも、成績とか進学先とかにいっさい興味をしめさなかったくせに、たとえノンポリだと謗られても気にするな、といいそえることだけは忘れなかった。父の助言が奏功したかは、私からもうしあげることはなにもないが、保岡(父)の落選で職を失い、国の中央からはるかに遠い、島に舞い戻った父に政治の狂騒の残響がおいすがったのは皮肉ではあった。
 詳細は稿をあらためて詳述するが、私の生まれた1972年には沖縄が本土に復帰し、1975年には枝手久島に石油備蓄基地移設がもちあがり、翌年のMA-T計画と、私が虎雄氏におめみえした1983年の第37回衆院選と、十年あまりのあいだ南の島々は中央とひどく隔たった場であるにもかかわらず、あるいはひどく隔たっているがゆえに、政治の力学の歪みの堆積する場となった。 むろん国の領土の端の芥子粒のような島々である。沖縄の本土復帰からまもない私の子ども時分のときはまだ、本場米国とのタイムラグもあってヒッピーみなさんもいて、アージャ(父)は自民党支持者ではあるものの島でいちばんの陽気な酒呑みでもあったので、私の幼いころは知らない若者がよく家に泊まっていた。私はシマではみたことのない風采のお兄さんお姉さんらの吹かせる都会の風に眼を細めたものだが、やがて社会に収まった彼らの多くもヤマトに暮らすシマンチュとなった私も雑踏で踵を接する無名の群衆のいちぶとなった。 右肩上がりの経済状況を反映し、やがて海外旅行もめずらしいものではなくなっていた。 
 観光業はしだいに尻窄みとなり、基幹産業はむろんのこと、沖縄のように三次産業も十分に育てられなかった頸木(くびき)は奄美群島振興開発特別措置法(奄振法)にたよらざるをえない経済構造を長らく固定化することになる。いわば発展からとりのこされたわけだが、そのような島々で徳州会の医療事業は人命というインフラを整える開発事業の側面もあった。虎雄氏は医師である前に、辣腕をふるう経営者であり、一代で稀代の医療ネットワークを築いた豪腕ぶりは、島出身の父から地盤を継ぎはしたものの、そのじつ東京生まれの二世議員である興治氏のスマートさに比してきわめて泥臭いものであった。
 青木理氏はそれを指して「大いなる田舎者」という。虎雄氏がそうなら私などただの田舎者だが、虎雄氏の身中には青木氏をしてそう呼ばせるだけの巌(いわお)のようなものが凝っており、東京者である興治氏を睨(ね)めつけるのである。

 昭和の時代の流行語で言うなら、「モーレツ」とでも評すべきなのだろうか。このようなことを書いたら徳田は怒り出すかもしれないが、馬力とバイタリティだけは満点の「大いなる田舎者」と評した方が適切に思えてならない。
 目的を定めたなら、そこに向けて一心不乱に突進していく。自分が正しいと思う目的達成のためには、あらゆる手段を行使する。目の前の信号が赤でも、構わずに突き進む。
(中略)そんな「大いなる田舎者」を生み出す原点となったのが、極貧の離党に生まれ育った出自にあるのは疑いない。加えて、奄美がかつて薩摩に侵略されて圧政に苦しみ、戦後は米軍統治下に置かれ、本土返還後も沖縄より悲惨な困窮を強いられたという「恨」の風土が生んだ負けん気もあったろう。
 そうした気質を「反骨心」、あるいは「反権力意識」と位置づけられるのかどうかは別としても、それが時には日本医師会との激しき闘いになり、政界入りを目指してからは、選挙違反など屁とも思わぬ政敵とのバトルにもつながっていった。

青木理『トラオ』(p122〜123)

 最後の段落は兵庫県知事選をとりしきったというPR会社の社長さんにもお目通しいただきけるとうれしい(noteだし)が、上記以外にも「朝起きると、おしっこしたいでしょ。便所いってみてください。おしっこをじゃーっとおわって、しばらくしないと、大便のほうがでてこない。こういうもったいないことは、しちゃいけない」(p121)と、大小便をいかに一括で済ませ時間を稼いで勉学にいそしんだかというタイパ時代にうってつけの指南もみえるので、ご興味のある方は青木氏か虎雄氏の著書にあたられるとして、私には風土をはじめとして青木氏の論評には異論もある。ことに「恨」のくだり、そのような感情を抱くものは島にはもうあまりいない。文中に述べるような来歴を知るひとも少ないだろうし、弁えたとしても身に沁みるほどではない。それは島の甥や姪をみていてもわかる。彼らにはヤマトのひとたちへの屈託はない。おそらく観光の時代にあって恨を贖うには資本主義的な標準化しかありえず、(観光)資源をみいだすにあたっては島の外の視線を内面化しなければならない。風土を自然環境や景勝地のみならず、そこに暮らす人々の精神を含み込むものとするなら、本土風に陶冶した風土は離島という名称の地続きのアミューズメントにほかならず、内面化した他者の視線は島と本土の関係をつくりかえる反作用となる。むろん本連載の主眼もまたそこにある。東京、大阪、尼崎、川崎──本土のシマンチュらの意識はどう動いたか。
 余談となるが、私の父は興治氏の父武久氏の秘書を1965年から69年のあいだつとめ、同世代のよしみもあって、当時は興治氏と着るものまで貸し借りしていたという。それもまた東京でのことであり、島は千キロ以上も先である。参勤交代さながらの「お国入り」なる用語が大手をふるう政界であったれば、殿様は江戸表にあってお国安泰というものだろうが、そのような統治の仕組みも、2024年の選挙の結果の数々が示すように、ある日突然、下馬評を覆し、崩れ落ちる。

モブ・ノリオ『JOHNNY TOO BAD 内田裕也』(文藝春秋)

 1983年の選挙で虎雄氏は興治氏に惜敗したのはすでに述べた。つづく1986年の衆参同日選でも虎雄氏は興治氏に敗れている。86年の中曽根政権下の選挙は俗にいう「死んだふり解散」によるもので、前回大敗した自民党は圧勝し党勢を回復した。その回の虎雄氏は3,541票の差で興治氏の後塵を拝している。前回はその三分の一なので、自民党の復活とともに分がわるくなったともいえるが、「でも内容は今回がずっと良かった」と虎雄氏は意に介さない。この発言は「平凡パンチ」1986年3月24日〜11月3日号掲載の内田裕也氏がホストのインタビュー連載「内田裕也のロックン・トーク」からのひとコマで、やるだけやったから満足している、と先の選挙をふりかえる虎雄氏に裕也さんは「両陣営からなかなりの実弾が飛んだと聞きます」と斬りこんでいく。ちなみに誌面では「実弾」には傍点をふってあり、いわゆる買収であることをほのめかす、というよりは強調しているのだが、虎雄氏は汚職選挙の責任を興治氏(と自民党)に転嫁し世直しモードに入っている。
 記事は告発調でも、スクープを謳うわけでもないが、裕也さんの民主主義や医療従事者へのどこかピュアな信頼感と、理想論にとどまらない意見はいまこそ読み返したい。さいわいにも、裕也さんの連載はモブ・ノリオ氏の小説「ゲットー・ミュージック」との合本『JOHNNY TOO BAD内田裕也』でその全貌をご覧いただけるので、未読の方はお手にとっていただきたいが、国鉄の勤労千葉の中野洋氏にはじまり、野村秋介、堤清二、カール・ルイス、野坂昭如、中上健次、赤尾敏、スパイク・リーに岡本太郎に戸塚ヨットスクールの戸塚宏の各氏からなる人選はそこから40年ちかくたつとはいえ、いまでは考えられないほど豪勢である。対談が誌面に載っていた1986年といえば私は中2で、プラザ合意後、男女雇用機会均等法が施行し、バブル景気のとば口にあたる。対談相手に女性がいないのは時流というものかもしれないが、一億総中流に傾きつつあるそのような時流に反発する意図も、連載には当然こめたてあるだろう。
 労働と思想と性愛にいまだ遠い中坊だったあのころをふりかえってみると、現在と異質の楽観的な(政治的)無関心とでもいえばいいだろうか、そのようなものに思いいたる。裕也さんが都知事選に出馬した1991年前後をピークに失調する経済のなかで、1995年の阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件で転調し、米国の同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災と、さまざまな曲折をためこみやがて失調していく日本社会の下絵ができあがったころの話である。そう書きながら、私はまたしても余談めくが、ちょうどそのころ、そのころというは2000年代のことだが、当時私は目黒区の大橋に住んでおり、当時まだサブスクはなかったので、週末になると自転車で三茶のキャロットタワーのツタヤにビデオを借りにしばしば通ったものだが、そんなある日、お店で裕也さんをおみかけしたことがある。私は当時カルチャー雑誌の編集者だったので、おそらくスカした映画のビデオのひとつも手にしていたはずだが、そんな私の前に、さして長くもない列ができており、そのなかに裕也さんがいらした。
 私は、あっ裕也さんだと思ったが、そもそも面識もなかったし、列の前のほうだったのでお声がけすることもなかったが、裕也さんの前の方につづいて「次の方どうぞ」と声をかけてきた店員さんに、裕也さんが「おれを特別あつかいしないでくれ」とやさしく言い放ったのにはまことにシビれた。
 フォーク並びといえばいいだろうか、三茶のツタヤは2〜3台のレジに客が一列をなす方式で、タイミングしだいで数人同時にすすむこともあり、前のお客さんと同じタイミングで裕也さんの番がきたのを、裕也さんだと気づいた店員さんが優先させたのだと、裕也さんはおそらく勘ちがいされたのであった。私は、いや私だけでなく、そのとき三茶ツタヤにいた十数人は心のなかでツッコミつつ、朝日のようにさわやかな気分であった。真夜中のキャロットタワーがまるで朝日のあたる家のようであった、と書くと意味がちがってくるが、裕也さんの等身大の公正性といえばいいだろうか、そのようなものに清明な感動をおぼえたのであった。
 そのような裕也さんであるから虎雄氏との対話にもどぎつさや下世話さはあるにせよ、品のようなものが終始漂っている。答える虎雄氏は二度目の敗北直後のながらいつも以上に意気軒昂で、自民党の土建屋政治を一刀の下に斬り捨てながら返す刀で自身も当選のあかつきには「大きい権力を持つ」ために自民党入りすると言い放ち、一同のうえにはおそらくきょとんした空気がながれたにちがいないが、意に介する様子もない。なんとなれば、虎雄氏のやっていることは農村でも離島でも、だれもが最善の医療を受けられる社会をつくるための運動であり、政治や経済は手段にすぎず、戦争に喩えるほど苛烈な選挙戦の敵方の所属政党でもつかえるとみるや意に介さない。じじつ1993年の二度目の当選のさい、虎雄氏はそのような動きをみせ、自民党の支持母体のひとつである日本医師会の強硬な反対で3日で党を追われている。
 傍目には奇異にも映る虎雄氏の行動原理、その底流にある思想信条について青木理氏は以下のように述べる。

 政界で徳田は、ほぼ一貫して「保守系」に位置づけられていた。亀井静香や石原慎太郎との深い交流や、後にぶちあげた「石原新党構想」などはその何よりの証左にも思えるのだが、私は、徳田を単なる「保守」と位置づけるしまうことに強い抵抗も覚える。

青木理『トラオ』(p189)

 以下徳田自身の発言を併記するかたちで、徳州会グループの病院には左翼も右翼も公安の監視対象も、現役で東大に入ったやつもいること、虎雄氏に先立ちアフガニスタンで凶弾に斃れた中村哲氏がかつて徳州会に勤務し、ペシャワール会設立後も支援をつづけていたこと、10月の衆院選の比例南関東ブロックに立民から出馬した元社民の阿部知子氏も徳州会の医師であることを青木氏は例証したのち、区割り変更で奄美群島区がその一部となった鹿児島1区で虎雄氏と戦った立民現職の川内博史氏の発言として虎雄氏の政治的立ち位置を以下のように述べるのである。

「リベラルです。ただ、少し特殊なリベラルなんです。自分がどこまでも強くなるんだと。強くなった結果として、弱い人たちを救う力を得るんだというのが彼(徳田)の発想だったと思います。僕自身もリベラルですから共感する部分はあった。でも、やり方がちょっと違うとは思っていました」

青木理『トラオ』(p193)

 弱者救済の目的をもって川内氏は虎雄氏をリベラルとみなすが、力による政策実現は民主的とはいいがたい。むろん虎雄氏の「生命の平等」なる理念に注文をつけるひとはひとりもいない。とはいえ実現にあたっての制度設計や合意形成はスローガンだけではなりたたない。厄介なことに、虎雄氏のみたてによれば、医療界は日本医師会というエリート集団が牛耳っているのだから虎雄氏の改革は既得権益層との闘争に変換可能だし、虎雄氏を医療界の風雲児ともてはやしたメディアの記事の論調の多くは反エリート主義的な調子を帯びてもいた。中央のエリート対周縁部の大いなる田舎者──このような構図のもと、リベラルはポピュリズムの背景に退き、思想や定見より主情と感覚が幅を利かせることになる。じじつ1990年の第39回衆議院議員総選挙で初当選をはたす数ヶ月前に虎雄氏が結成した自由連合に参加し代表幹事もつとめた経済学者の栗本慎一郎氏も、『トラオ』での青木氏の取材に「(虎雄氏と/筆者註)自民党はダメだとか公明党はどうだとか、政局の話はもちろんしましたけど、政策については、(私は)一発で話をやめた」(p176)と述べている。
 意図的か否かはさておき、知性よりも反知性の放縦による改革を目論むのは、客寄せのタレント議員というよりはこんにちのトランプをはるかにさきがけるかのようである。両者には力への意思への深い執着がある。あるいは石原慎太郎も猪瀬直樹もとびついた徳州会という経済的後ろ盾をふまえるならイーロン・マスクとでもいうべきか。もっとも改革が名目の規制緩和の旗印のもと国民健康保険、皆保険制度に手をつけなかっただけ虎雄氏はましだともいえるのだが、そしてTPPではそれが現実のものとなるおそれがあったのだが、「医療改革」一点張りで、そのためにも首相にならなければならないと宣うたという虎雄氏の論法には規制緩和の名を借りた利益誘導にかまけるような狡知さとよりも依然使命感が勝っている。むろんその行動は善行ばかりではなかったどころか、違法すれすれのこともしばしばだったのは前回述べたとおりである。ときに悪事を働いてなお純粋にみえる虎雄氏をさして栗本氏は「汚くないウンコ」に喩えるのだが、そのような矛盾をして首肯させる点に虎雄氏の滾るような生命力が凝縮している。
 スカトロジックな話ばかりで恐縮だが『JOHNNY TOO BAD内田裕也』所収のモブ氏の小説「ゲットー・ミュージック」にはウンコと土との有機的な関係をにおわせる『深沢ギター教室 あなたも「禁じられた遊び」が弾ける』(光文社)の引用がある。また深沢氏は本書の引用からは外れる原書の別の箇所で土は人であるとも述べている。

土は、黒いのもあれば、赤いのも黄色いのもある。しかし、土はみんな同じなのだ。人間に白人と黒人があるとの同じことだ。土は、なんでもかんでも呑みこんでしまう。そして、なにもかも土にしてしまう。自分と同じ仲間にしてしまう。

深沢七郎『深沢ギター教室 あなたも「禁じられた遊び」が弾ける』(p75)

 深沢氏の地平の先に虎雄氏の生命の平等もあらわれる、他方で、その夢の追求には注意も必要だと1986年の対談で裕也さんは指摘する。

裕也 夢を盲信することは男のロマンですが、勝つまで徹底的にやることです。でもその間に、少しずつずれて行くということもあります。
徳田 僕の場合はないです。弱きを助け悪しきをくじくという条件を徹底的にはずさないから。西郷隆盛も言っているように、人間は、命もいらん、何もいらん、地位も金もいらんという奴ほど始末に困る。何も怖いものがない。命のいる奴は命で脅せばいいし、金のいる奴は金であしらえる。何もいらんということは怖いことなんです。

『JOHNNY TOO BAD 内田裕也』(p163)

 胆力を感じさせる発言だが、不意にあらわれる西郷の名には説明が要るかもしれない。虎雄氏の発言は、彼にとっての西郷が維新の功労者というよりその歪みを糺すべく、明治10年の西南の役で、圧倒的不利な情勢をかえりみず挙兵する西郷、エモいヒーローの西郷であり、大衆的な人気にあやかる以上の意味はおそらくなかった。その西郷像の核にあるものもおそらく司馬遼太郎の『翔ぶが如く』や林真理子の『西郷どん』など、ともに大河の原作の両作が時代の隔たりにもかかわらず合わせ鏡のごとく映し合う、現代的な紋切り型の域を出るものではない。そう推断しつつも、私には虎雄氏(と裕也氏)の言の影に、たとえば渡辺京二の「死者の国からの革命家」(『維新の夢』所収)における、沖永良部島への二度目の遠島で、薩摩への忠義の糸が切れ、民の原像としてシマの老婆に頭を垂れ、死者を弔うことに誠心した西郷、あるいはそのときの心情をさして「弧状を描いている日本列島のはずれの小島で(中略)ヤマトの政治というのは、どうにも嫌だなあと。あれは違う政治なのではあるまいか」と述べる橋川文三の『西郷隆盛紀行』における西郷像がちらつくのである。むろんこれこそ臆断の最たるものであり、そもそも渡辺氏にせよ橋川氏にせよ、その言説は歴史学的な裏づけには乏しく、ゆえに文学の域だとしても、しかし、であればなおのこと、ありうべき近代を模索するもののとるべき思考の道筋なのではないか。
 とはいえ虎雄氏がそのようなことを意識していたとは思わない。一方で、軍国主義者であり侵略者でありながら最後には賊軍の将として斃れた西郷と同質の、矛盾を抱えるがゆえの狂熱のようなものを虎雄氏も身に纏っていた。シマのものを惹きつけたのもそれだろう。私はさきほどトランプやイーロン・マスクをひきあいにだしたが、虎雄氏に彼らのような資本主義的な合理性はない。「地位も金もいらん」のであるから。そのうえ汚くないウンコであるからには見た目に眉を顰めても鼻につくほどの臭いもない。
 現在の社会にそのような人物が存在する余地はあるだろうか。
 そこに虎雄氏とトランプの、昭和と令和の、冷戦とポスト冷戦と新冷戦のこの40年の懸隔がある。これをもって資本の、新自由主義の、あるいはまた権威と専制主義の勝利というのはなんとも救いのない雑なみたてだと私自身、書きながらそう思うが、政権交代可能な二大政党制の確立を目して踏み切ったわが国の小選挙区制にも、米国の大統領選さながら地域と共同体を分断する不可視の亀裂が走っており、虎雄氏と興治氏の保徳戦争はそのことをだれの眼にもあらわにしていた。
 私たちはもしそれを忘れていたなら、凡庸な歴史学者のしたり顔の警句を思い起こすべきかのか。
 それこそひとつの寓話である。
 結局裕也さんと対談をもったその次の、1990年の第39回衆院選で虎雄氏は三度目の正直ではじめて興治氏をくだしている。49,591 票に対して47,446 票。2,145票の僅差であった。
 さらにその2年後、一票の格差是正のため、鹿児島1区になしくずし的に統合し、戦後およそ40年にわたって唯一の小選挙区であり、虎雄氏と興治氏の戦場であった奄美群島区は地上と、人々の記憶から消え失せたのである。
(序その三につづく)


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