【ユンゲ・フライハイト紙】ハーナウでの狂暴な殺人: 少し落ち着いてみてはどうだろうか
2020年2月21日 アリス・ヴァイデル筆
明白な精神障害を抱えている人物によってハーナウにおける狂暴な殺人が起こって以来、度を超えたキャンペーン活動が、わが国全体を席捲しており、ヒステリーや卑劣さ、ドイツ連邦共和国の歴史とは別の考え方をもった人に対する誹謗や中傷をしようという破壊的な願望が、類を見ないものとなっている。
そのキャンペーンは、連邦首相のアンゲラ・メルケルや連邦大統領のフランク・ヴァルター・シュタインマイアー——彼らはまたも自らの就く高位の政治的役職を日々の政治の塹壕戦のために濫用したのである——に始まり、キリスト教民主・社会同盟、緑の党、左翼党、自由民主党の連邦、地方レベルの政治家だけではなく、さらにはもっと底辺における地域的・地方的なレベルに至るまでの、既存の政党全体の代表者や代弁者によって推進されているのである。そこで明らかに誰もが考えているのは、ちょうどいいときにお決まりの物事の歪んだ解釈をどう繰り返すか、なのである。
一面的に支配されたトークショウや偏向したコメントの音響室によって、政治から発せられる言葉を倍増させている従順なメディアの代表者もまた、このキャンペーンに燃料を投下している。Jakob Augsteinや公共テレビの司会者Jan Böhmermannのような疑わしい人物などは、不人気の政治家や独立メディアの不愉快な対抗者に対する全般的な攻撃をけしかける機会がやってきたと考えているようである。
傲慢なる歪曲
事実を見つめる前に、判決はすでに決まっているのである。このハーナウにおける狂った人間による凶行は、「人種差別的かつ極右的」な動機をもつテロ行為であり、それについての責任は、民主的な討議からずっと距離を取ろうとしてきた人々に帰せられるべきなのである。つまりは、大連立や左翼的-緑の党的なメインストリームに抵抗する野党としてのドイツのための選択肢や、そしてその潮流に反対する独立したメディアに属する批判的な人々のせいだというのである。
このような物語は、事実によって裏づけられないだけではなく、さらには事実に対する無知で傲慢な歪曲に依拠している。それ以外の場合においては、いつでもすすんで、原因を問いかけることもなく、イスラム主義的なイデオロギーの名の下に殺人を犯したテロリストを、精神的に障害を抱えた個人として説明しているのと同じ声が、今度は事実として精神病に罹患している人間を、何の躊躇も疑いもなく、「極右のテロリスト」として認定しているのである。
極右によるテロも存在しているし、同じように極左によるテロもイスラム主義者によるテロも存在していて、法治国家であれば、他のあらゆるテロや政治的暴力の形態と同じように、それらに対処しなければいけない。しかしながらハーナウの狂暴な殺人は、その典型的な事例とはいえない。
ハーナウの犯人についてわかっている全てのことによるならば、そこで問題になっているのは、かなりの高レベルの精神に障害を抱えたパラノイア的な精神病患者なのである。彼は生まれてこの方、自らの頭のうちに住みついている内なる声や諜報機関によって追跡されていると感じていたのであり、しかも彼の考えは、世界を支配する悪しき権力や地下的な悪魔崇拝者による妄想に取りつかれており、またその世界支配は正しくは、本来であれば、誤解された天才である彼に認められるべきものだというのである。
彼が自らの狂気から導きだして整えた狂った体系のうちで、ハーナウの狂暴な実行犯であるTobias R.はまた、不愉快な人種差別的で人間侮蔑的な考えを抱いていたのである。このような連関は、それを知ろうと望む人であれば、簡単に調べることができる。
いわれなき憶測が政治的環境に毒をばらまいている
けれども恐るべきほどの同調性によって語られる政治的-メディア的な物語は、誰でも見抜くことができるような意図をもって、部分的な側面だけを絶対化し、事実の全体を正当に評価しようという試みを、議論の余地のない解釈として確定され、さらなる「罪の証拠」となった「極右によるテロ」を、過小評価しようとするものであるかのように歪曲するのである。
このことは、いかなる証拠も証明もなく、この犯行はドイツのための選択肢によって刺激されたものであるという、述べられた通りの主張を支持するという点で、それ自身において閉じられた狂気のシステムと似ている。あらゆる合理的な論争を超道徳的に沈黙させることによって、わが国の政治的環境に毒をばらまき社会を分断しているのは、むしろこのようないわれのない憶測なのである。
その影響は劇的なものである。ネット上にはヘイトが飛びかっている——それは、このような物語によって勇気づけられて、「右翼に対する闘争」においていかなる制限や抑制も無くしてしまった人々によるヘイトである。多くの人々が、それによって私的制裁行為へと訴えかける権利を得たとまで考えている。Erika Steinbachのような、さらし者になったような人物に対するペンキやスプレーによる襲撃などが再び起こっている。さらによくないことが起こらないことを祈るのみである。
少し落ち着いてみてはどうだろうか。恐ろしい犯罪が起こった。人々が殺害され、自らの人生や友人や家族のまわりから去っていった。私は犠牲者の家族や生存者に対して共感の意をしめすとともに、その心理的な傷が早期に治癒され回復することを願っている。誠実にものを考える人ならすべて、そしてまた私の政党で私が知っているすべての人々がそう感じている。それこそが私たちのすべてを結びつけるまとまりである。
私たちは理性へと戻っていかねばならない
それに対して何よりも卑劣なのは、死者やその家族を日々の政治的な問題のために道具として濫用することである。たとえばアンネグレート・クランプ=カレンバウアーのように、対抗者であるドイツのための選択肢への「防火壁」を設置して、それと関連したテューリンゲン政府の危機における自らの政党の機能不全を後から正当化するために。あるいは、社会民主党の書記長のLars Kringbeilのように、不愉快な野党や競合政党に対する憲法上の保護観察を要求するために。あるいは批判的で独立したジャーナリストを誹謗中傷し、それによって意見の自由やメディアの自由を攻撃するために。
そうではなく私たちは事実のもとにとどまって、正しい問いを立てなければならない。その問いとは、どうすれば明白にサイコパス的な人間が、自らの環境の知覚における絶滅的妄想から完全に逃れることができるのか。あるいは、なぜそのような人が延長された武器所有許可を手にするということが生じえたのか、というものである。
とりわけ私たちは理性へと回帰しなくてはならない。ヒステリーは悪しき相談相手であり、それは分断し、毒をまきちらす。あらゆる無言による反対デモや道徳的判決以上に、切実に私たちの社会に必要なのは、それぞれ別の考えをもつ人々への敬意をもった、合理的で平等な公的な討議と政治的競合なのである。
https://jungefreiheit.de/debatte/kommentar/2020/halten-wir-inne/