【ユンゲ・フライハイト紙】さらなる難民の受け入れの要請: 偽善は続いていく

2020年3月3日
「それはすべて私たちがやってきたことである」という感情が、ドイツやヨーロッパを駆け巡っている。連邦首相のアンゲラ・メルケル(CDU)が、2015年に、確かに法的に正しくはないが事実的な措置として国境を開放して以来、その結果として数十万人もの経済移民や保護申請者や難民が、わが国に殺到してくることになった。

その際にドイツあるいはむしろその世論は、さらに空いた場所を創り出して、もっと多くの文化的に異質な人々を連れてくることが問題が問題となると、道徳的な誘因をもった歓迎への陶酔によって、先頭に立ったのであった。政治的かつ社会的に、その結果がどういうものであったかは、私たちはすでに知っている。

そしてまた、裕福な暮らしをして、それゆえに大半は緑の党への投票者が集まるような大都市の居住区画が首尾よく難民宿泊施設から隔離されているのを、新聞などで何度も目にすることになったとき、あるいはまた調査の結果、低価格帯の家を借りている人々がその屋根裏部屋の所有者とではなく、移民たちと支払い可能な住居をめぐって争うことになったとき、この大量移民に反対の人たちは、それに意地悪く反応したのであった。

「私たち」という言葉によって市民社会は自分たちのことは当然念頭に置いていない
いまそれが再び始まろうとしている。確かに移民の集団は相対的にまだ遠くにいて、ギリシアの休暇向けの島かあるいはトルコ国境の手前で待ち焦がれている。しかしながら、いまや歓迎の文化を築き上げた人々や難民から利益を得る人々は、またも絶頂になっている。火曜日には、共感として偽装された過激な要求であるハッシュタグ#WirHabenPlatz(私たちには場所がある)が、流れ始めた。

この「私たち」という言葉によって、当然ツイッター上の市民社会は、自分自身たちのことを念頭においているのではなく、正規の納税者たちによって支えられている国家のことを考えている。また「場所がある」という言葉によって、何が考えられているのか。あるFridays For Futureの支持者が書いているように、まだ難民を受け入れておらず、絶対に彼らを受け入れることができる(なければならない)村々のことである。

とりわけ、かつてアフリカ人たちを地中海経由でヨーロッパに運んできたCarola Racketeは、この間には気候を救済することを試みていたようであるが、今や再び彼女の昔の仕事を思い出したようであり、「私たちには場所がある」というモットーのもとで、デモをするように呼びかけている。だがそのCarola Racketeは、数か月前にはシュピーゲル誌に対して、ドイツではあまりに狭い部屋にたくさんの人が住んでいるから、長い目でみればドイツには留まりたくないと語っていたのであった。

またFridays For Future運動では影響力を弱めつつあるルイーザ・ノイバウアーも、「たくさんの人々」が「Wir haben Platz」や「人権」を支持しているにもかかわらず、「逃亡してきている人々よりもむしろ国境のことだけが心をこめて語られる」ことを嘆くことによって、ツイッター上の「いいね」をしきりに集めている。さらに、この裕福な家族の出身である女子学生は、たくさんの緑の党の欧州議員の請願に署名をするように自らの支持者にお願いをしているが、そこで特に要求されていることといえば、ドイツは「一定数の国外逃亡者たちをギリシアから」受けいれなければならないということなのである。

お遊びの連帯ごっこによる偽善
このようなお遊びの連帯ごっこによる偽善が、彼らの眼には入らないようである。なぜ彼らは、完全にプライベートで自分のお金で難民たちを財政的に支援して彼らに住居を提供するような、この間に存在した数多くのプロジェクトには応募しないのだろうか。なぜSeebrückeのデモ参加者たちは、支援組織を作って、ギリシアやトルコのキャンプやあるいはシリアやアフリカの移民たちを直接手助けしないのだろうか。

EUの門の前でそれが開くのを待っている移民たちは、数週間もすれば、ハンブルクやベルリンやミュンヘンの門の前に立っているかもしれない。Wir haben Platzと呼びかけた人々は、そのときに自分の責任で行動をするのだろうか。あるいは彼らは怪しげな「私たち」の背後に隠れて、社会に対して支払いをお願いするのだろうか。経験から診断をすればこのように言えるだろう。偽善、それはまだ続いている。

https://jungefreiheit.de/debatte/kommentar/2020/wir-haben-platz-die-heuchelei-geht-weiter/

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