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罪の文化、恥の文化

これは割と人によって見解が分かれるのかな?と思ったりもするのですが。
ツ○ヤなどでDVDを借りて貸出日数を過ぎてしまった場合、当然ながら延滞料金を支払うことになりますよね。
例えば1泊延滞で1枚200円だとして、これは店側からのメッセージとして「200円払えば延滞しても良いですよ」と見做すべきなのか、「延滞しないでください。したら200円払ってもらいますからね」と見做すべきなのか、かなり微妙なところです。
前者は200円を「延滞の対価」としており、後者は「延滞の罰金」と言い換えることができます。
個人的に私は後者派で、基本的に「延滞はしちゃダメ」という大前提があって、どうしてもやらかしてしまった場合に備えて罰則的に作られた費用体系なのだという意識でいます。
が、小学校からの幼馴染で今でも仲の良い親友や、私の妻などは前者派で、「え?200円払えば延滞できるでしょ?」と平然と言ったりします。そういえば二人とも血液型はB型で、左利きです。だからなんだというわけではないですが…はい。(怒られるぞ)

私が後者を支持する理由は、DVDのレンタル日数は借りる時点での店舗との「約束」と捉えているからだと思うんです。ただ、一方で「延滞した場合の料金も含めて、約束」とも言えるのでどちらが正しいと断言できる話ではありません。
唯一、店の立場になって考えた場合にはっきりと言えるのは、延滞料には後払いという難点があることです。後払いである以上は回収の手間が発生するため、経営者はそれを嫌います。
延滞料は割高に設定されていることが多く、もしかすると延滞してくれる人がいっぱいいた方がお店は儲かるのかもしれません。が、その延滞料がいつまで経っても回収できない(≒DVDも返ってこない)となるとまさに元も子もない、って話になるわけです。

眉唾の話にはなりますが、個人情報の扱いが今よりもずっと雑だった時代などは、住宅ローンの借り入れ審査にレンタルビデオの延滞歴まで調べられていたこともあると聞いたことがあります。
今でもクレジットカードや携帯電話、その他税金等の支払いが滞った履歴がないかをチェックされるというのは割とよく聞く話です。公式にそう発表されているわけではないので本当かどうかは知りません。ただ、金融関係に勤める知り合いは口を揃えて同じことを言います。

これを聞くと、オタクの皆さんなら想起することがあるのではないでしょうか?
そう、お話し会などの特典目当てで購入するCDを申し込みながら支払いを怠ってしまう、いわゆる「干す」という行為です。
干してしまった場合、抽選に当たりにくくなるといった声を時々耳にしますが、お金の流れでその人の信頼性を図ることが有力な手段となっているのであれば、それもあながち信ぴょう性のない話ではないのかもしれません。
(「もう干しませんから」と反省文を出せば復活するという話も聞いたことがありますが、流石にそれは・・・と個人的には思ってます笑)

さて、前置きが異様に長くなってしまいましたが(何も考えずに書いてるのバレバレ)タイトルにもあるように「罪の文化、恥の文化」について考えてみたいと思います。

アメリカの人類学者であるベネディクトさんというひとが「菊と刀」という著書の中で欧米人と日本人の考え方の違いを著した言葉なのですが、欧米は罪の文化なのに対し、日本は恥の文化だと言います。

その意味を率直に読み解くと、欧米人は主に宗教をベースとした道徳心に背く行いを「罪」と捉え、それを自身の行動基準としているということです。一方で、日本人は自らの行いが周りにどう思われるかを考え、恥をかかないように行動することが意思決定の基準となっているという理屈です。
つまり、欧米人はゴミをポイ捨てする時に「それが神のお考えに背いたことではないか」と考え、思いとどまる(いや、実際は捨てる人たくさんいると思うけど)のに対し、日本人は周りに他人の目があれば行儀良くしながらも、誰も見ていない所では平気でポイ捨てしちゃいますよね?ということです。

ベネディクトさんがどんな人だったのかは知らないし、そもそも「菊と刀」を全部読んだわけではないのですが(読もうよ)、この部分だけを切り取って見るとやや欧米人贔屓のように感じざるを得ません。
なぜなら宗教観やそれに基づく倫理観も欧米人の中であっても大きく差があり、例えば育った国や環境、家庭の経済的理由でも神の教えに触れる機会に大小は生まれてしまうわけだから、欧米人が一律して「罪」の意識を持っているとは言い難いからです。

一方、日本人の「恥」についてはどうでしょう。例えば義務教育の中に「道徳」はあるものの、明確な「恥」の基準を教えられることってほとんどないんです。
強いて言えば、幼い頃にバカな行いをした時、親から叱られることくらいでしょうか。それにしたって、子どもの頃はなぜ怒られたのか釈然としないまま過ごし、やや成長してから「恥ずかしいことしてたよなぁ」と自発的に気付いたりするわけですから、宗教とはまるで異なった倫理観の形成がなされているのだと考えられます。
確かに、人が見ていない所では・・・という難点はあるものの、「壁に耳あり、障子に目あり」という諺が古くからあるように、常に日本人は周りの目を警戒し続けており、実際には誰も見ていなくても誰かに見られていることを想像して、最低限の規範は守るように成長することが多いように思います。
欧米の「罪の文化」は高い倫理観を持った人を生み出す良いシステムなのかもしれませんが、罪には必ず罰が伴うことから、結局のところ「罰が嫌だから罪も犯さない」というやや後ろ向きな空気も感じます。仮に罰がないとしても、恥をかくのが嫌だから悪いことはしない、の方が人として健全な気がするのは私だけでしょうか。

ただし、近年は「人に見られる」ことを認知する基準に大きな個人差が生まれ始めてきているという問題があるようにも思います。
回転寿司で醤油差しをぺろぺろする動画を流して損害賠償請求をされた少年がいました。それは確実に罪であり、思いっきり罰を受けているわけですが、同時に(というかそれ以上に)世の中にここまでそれを拡散された恥の方がむしろ社会的制裁という意味でダメージが大きいように思います。
しかしこれ、誰かがこっそり撮影して動画を流したわけではなく、自分たちで楽しく撮影し、自身でSNSに公開してしまったことが発端です。動画が残らなければおそらく永遠にバレなかったか、店員さんにその場で怒られて終わりだった話のはずです。それにもかかわらず、自ら恥を晒しにかかりこの結果に至った。明らかに「他人に見られる」ことへの意識に違いが出始めていると言えます。

そういう観点から言うと、鍵垢からいわゆる鍵引RTをする人というのはまだまともなセンスを持っていると言えます。自分の発言が他人に見られて恥ずかしい(あるいは自分の発言が発端で揉め事を起こすのが恥ずかしい)から「見られない」ようにしようという自衛手段を持っているからです。(褒められたこととは言えませんが)
本当にやばい人は自分の言ってることがどれだけ恥ずかしいか理解せずに、好きなことを好きなようにSNSで発信できる人なのでしょう。ともすれば、見られているかどうかを意識していないというよりも、むしろ見てくれと思ってやっている人もいるのだと考えると一種の恐怖を覚えます。

フォロワーさんはもちろんのことながら、公開アカウントであれば誰でもそれを見られるわけで、もっと言えば、あなたの大好きな推しがそれを見ているのかもしれない。それを想像した時に、多少なりとも襟を正そうと思えるかどうかってことなのでしょう。
少なくとも、大切な推しのアイコンを掲げながら他のグループやアーティストを貶めるようなツイートをする人とはとても感覚を共有できるとは思えません。
・・・あ、そうかだから鍵引RTが横行するのか。と変な納得をしたところで、今日は結びにしたいと思います。深夜に書くと碌な文章になりません。これを恥の教訓として次回頑張ります。知らんけど。

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