独善より薬膳
「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉がある。
巧みに物事を発信し伝えることに価値があることは評価に値する一方、場合によっては黙っていることの方がより良い結果をもたらすといった意味のことわざである。
私は雄弁などという聞こえのいいものではないが、やや多弁であることは自覚している。女系の家に育ち、高校では文系クラスで、大学は7割以上の学生が女子という環境の語学系に進んだのだからそもそも育った環境からして「喋らないと埋もれる」ものだったのが遠因かもしれない。などというと、最近流行りのジェンダー論者にお叱りを受けそうだが。
しかしことわざに反して、社会に出て仕事を始めると
「会議で意見を出さない者は必要ない」
といった論調で指導されるケースをよく見るようになった。母親をはじめ、周りの女性から「喋りすぎや」と窘められてきた私にとっては青天の霹靂である。学生時代に、化粧は禁止!と厳しく躾られてきた女性が、社会に出た瞬間に化粧もしないとは何事かと叱責されることに矛盾を感じるという話は度々仄聞するが、それに近いような感覚であると思料する。
しかし、「沈黙は金」という言葉の価値を最近になって再認識するようになってきた。
沈黙している限り明確な「勝ち」には至らないものの、致命的な「負け」にはならないからだ。テストで言えば、全く分からない科目であるにもかかわらず無理に解答して提出すれば落第点をとってしまう一方で、白紙で出せば100点にはならないものの落第も免れるようなものだ。消極的勝利と言える。こんな都合のいいシステム、使わない手はない。
とは言っても、みんながみんな沈黙で消極的勝利を取りにかかったら事態は何ひとつ進展を見ることはない。そのため何かしらの発信をすることは場に対する一種の「貢献」として捉えることもできると言えるのかもしれない。但し、何かしらの発言、発信を行う場合、多くは「相手あってのもの」という自覚は不可欠である。
大切なのは、分からないことや全貌が明らかになっていない事象に対して個人的な気持ちを表すだけならまだしも、他者を巻き込んで独善的に正義をふりかざすことはタブーだということだ。
換言すると、模範解答すら世に出回ってない設問に対して自分なりの解答を考えるところまでは良い。しかし、その解答があたかも世界の常識であるかのように振る舞うとしたらどうだろうか?
「このひとすげーや!このひとについていこう!」
そんな風に思うひとは、ほぼいない。
同調するひとがいる可能性は否定しないが、それは元々似たような思考回路の持ち主なのか、あるいは自分では何も考えられないタイプのどちらかであると考えられる。
また、多くの場合「自分なりの解答」と当人が思い込んでいるものであっても、よくよく紐解けば誰某からもたらされた断片的かつ恣意的な情報をもとに言わば「入れ知恵」をされ、無自覚に自分の意志であるかのように導かれたりするものであったりするから噴飯ものである。
個人が思いをめぐらすのは自由だが、ごくわずかな手がかりから勝手に最悪の展開まで妄想を膨らまして、義憤に駆られながらどこかに怒りをぶつけ、思うような反応が返ってこなければまた怒る。家でひとりでやってくれればまだ良いが、不特定多数のユーザーが閲覧するSNSで、ましてや愛すべき「推し」の看板を背負ってそれをやるのはもはやテロ行為に等しいと、私などから見ると思えるのである。
ちなみに私はイコラブ以外のアイドルグループについては全くの門外漢なので、何も意見できるところはないが、かのような騒動があると「沈黙は金」なのだなと改めて考えられるのは、外郭から感情的にならずに客観視できる故の強みなのだろう。それは一種の驕りと言ってもいいかもしれない。
ただし、ああいった場面での「雄弁」は銀でもなんでもなく、多くのひとには鉄くずに近いものとしか見られないので身の程をわきまえて発言したいものだと今更ながら気を引き締めるのであった。
いや、もはやこれ書いてる時点で手遅れcautionかも…?知らんけど。
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