本当のコミュ力を見た日
めちゃくちゃ個人的な話であるが、私には姉がいる。ただ、姉とは割と年齢が離れていたこともあり、家族4人で遊園地などに行ったという記憶は、幼少期を除いてあまりない。姉は一定の年齢に達すると友人らで遊びに行くことが必然的に多くなり、私が小学生の頃などはまるで一人っ子かのように父親と母親、そして私の3人で遊びに行くケースが多かった。
それはそれで悪くなかったのだが、両親は一緒に乗り物に乗ってくれたりはしないので基本的に乗っている私を両親が見ているという構図になる。当時の写真を見ても私が一人で乗り物に乗っている様子が写っている。正直、あまり面白くない。いつの間にか親が見ていなくても一人で適当に乗って楽しむという根暗なスキルを身につけることができた。
一方で当時の私には謎のコミュ力(自認)があり、同じく一人で遊んでいるらしい子どもを見つけるや否や、男女問わずに構わずナンパしてきて行動を共にするというややこしい行動をとっていた。名前も知らない子と数時間だけの親友になるのである。Bad Communication(B’z)もびっくりである。無論、SNSなどない時代なので本当に「一期一会」なのだ。
小学校、中学校、高校、大学と、クラスや部活での友人が多かったことに加え、高校2年生くらいにネットの世界に入り浸り始めたあたりからはネット経由で知り合った趣味友達とも親交を深めた。ますます交友関係は広がった。
友人が増えるにつれ、もちろんケンカすることもなかったわけではないが、あくまでも「友人」と言う基盤があった上でのケンカなのだ。決して冷淡なものでも、陰鬱なものでもなかった。
俺はコミュ力が高い。長らくそう思っていた。(ちなみに当時は「コミュ力」なんて言葉はなかった笑)
そんな世界・価値観が一変するのは就職してからである。当然ながら同僚や上司は必ずしも友人ではない。取引先の人などは言わずもがな、である。
少し前まで親切で友人のように接してくれていた先輩が、仕事が絡んでこちらに不手際があった瞬間に罵詈雑言を浴びせてくるなどという経験もした。それまで、身近にいる人=友人(あるいは親・先生など)という世界しか知らなかった若者にとってはなかなか刺激的である。
今、自分がコミュ力が高いかと問われると、とてもじゃないがYESとは言えない。むしろ、年々コミュ力が落ちている気がする。
いや、正しくは「仲良くしたくない相手とも仕方なく仲良くしてるふりを演じなければならなくなる場面」が年々増えていくに従って自分のコミュ力のなさが露呈する場面も増えていくのだ。仕事で関わる相手は残念ながらほとんどがそんな感じだ。年齢を重ねれば重ねるほど、良くも悪くもそんな場面は加速度的に増えていく。
こいつ…職場じゃなかったらどついて泣かしたるからな。なんて物騒なことを思わず考えてしまうような相手にも、ニコニコしながらサポートしたり指示に従ったりしながら、上手く付き合っていかねばならないのである。私はそれが上手ではない。
今まで、自分で胸を張ってコミュニケーションを取れていると自負していた時の相手は「友人」のカテゴリに属する人たちだったのだ。相手に助けられていた要素が多かったからなのだ。
問題は「友人でもなんでもない人」(もっと言えば嫌いなやつ)相手に良好な関係を築けるかどうか、そこができて初めてコミュ力があると言えると思うようになった。
テニスで比喩するなら、練習では順調にラリーを続けることができていても、いざ試合になるとラリーどころかレシーブすらもままならないのに似ている。
練習相手とはお互い「相手が打ちやすいところ」にボールを運ぶことができるが、対戦相手となると「相手が打ち返せないところ」を狙ってくるのだから当然だ。
自分はテニスが上手、と思ってラリーをしていた相手は、優しい身内だったからそれができていたに過ぎないのだ。
オタク趣味を通じて知り合った友人というのは非常に貴重なものである。
何を今更…というような主張だが、上述のような背景を踏まえるとその意味がより深く理解いただけるのではないかと思う。
日常的に過ごす時間の多くを仕事に取られる社会人になると、友人を作ることは相当意識しないと容易ではない。決して自然とできるものではない。放っておいたら(家族を除いて)身の回りには豪速球のサーブを打ち込んでくる上司や同僚が多くを占めるようになり、打ち返すのには相当神経をすり減らすようなことになりかねない。だから、一緒にラリーしてくれる友人がひときわ大切になるのである。
コミュニケーションを「取れている」と自負するのはいささか傲慢であると私は考える。あくまでも取らせてくれている相手がいて、かろうじて保たれているのがコミュニケーションなのである。
そんな中、先日一人の友人がTwitterの「スペース機能」を使ってラジオ配信よろしく、突如としておもしろトークショーを繰り広げた。彼もオタク趣味繋がりの友人で、私にとってはいわゆる「良きラリー相手」である。しかしスペースは開かれた場所であるため、彼にとっては全員が全員、「良きラリー相手」とは限らない。
そんな環境の中でも2時間弱にわたって一度も滞ることなく終始笑いが絶えないスペースを展開できた彼には脱帽である。もちろん、感じ方は人それぞれであっただろうが、最初から最後までリスナーを含め20人弱の参加者がいたことが高い満足度の証左と言えるだろう。
コミュニケーション力の高さ、とはこういうことなのかと舌を巻いた6月5日であった。またの機会を心待ちにしたい。
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