見出し画像

無責任のススメ

学校でもバイトでもそうなのですが、日本人は「責任感」というものを植え付けられる教育がなされてきました。
・・・いや、外国がどうかと聞かれると正直知らないんですが、少なくとも私の見ている限り日本という国では「責任感」というよく正体のわからない要素がとても重要視されていることは確かです。

責任感とは何なのでしょうか。責任であれば、何か問題が起こった時、不祥事があった時に代表して世間様に謝るであるとか、何かしらの処分、処罰を受けるということになろうかと思います。
一方で、責任に「感」をつけた謎の概念。責任感。
ネットの辞書で調べてみたところ

せきにん‐かん【責任感】 の解説
自分の仕事や行為についての責任を果たそうとする気持ち。「—の強い人」
※goo辞書より引用

ということでした。
つまり、責任を果たそうとする「気持ち」が責任感なのです。
気持ちは気持ちであって、当然のことながら必ずしもそうするというわけではありません。

「もっと責任感を持って仕事をしなさい」
という訓示は、換言すると
「責任を果たすぞ!という気持ちをもっと持って仕事をしなさい」
という何とも締まりのないものになってしまうわけです。

責任感という概念は非常に大事であることは認める一方、個人的な感覚としては、本当の意味で実質的な「責任」をとる人間から体よく連帯責任を押し付けられているように思えて仕方ありません。

「もっと責任感を持って仕事をしなさい」
という言葉の裏には
「最終的に俺に責任が降りかかるんだからお前らちゃんとやれや」
という気持ちが隠されているのだろうということです。

責任感を持って仕事をすることは大事なことではありますが、責任感に押しつぶされてしまっては本末転倒です。押しつぶされるのは責任を取る張本人だけでいいはずで、「感」に過ぎないものしか背負ってない者が潰される道理はないからです。

話せば長くなるので割愛しますが(もう十分長くなっている)、私も37歳くらいまで「責任感」の塊のような人間でした。そう、イコラブにハマり出す少し前のことです。
家族のことや仕事のこと、もちろん自分自身の人生のこと。全部責任感を持って…という気持ちでいたところ、いつの間にか「責任感」ではなく「責任」が混ざり始めていました。
ところがそんな違いには気がつきません。全部に一生懸命、いつも全力投球・・・としていた結果、ある時心身が潰れてしまいました。

その時に気づいたのです。
責任感は・・・もういいや。責任取らなあかんやつだけ、一生懸命やろう。

自分自身で起こしたこのパラダイムシフトは特に仕事には有効でした。
「何が何でも成功させなければ」
という考え方から
「あかんかったらしゃあない」
に変わり、
「これが失敗したら担当者の俺はどうなるんだろう」
という心配の仕方から
「これが失敗したら俺を担当者にした人はどうなるんだろう」
というクズみたいな思考に変貌を遂げました。

責任感を強く主張し、押し付けてくるこの世の中は、驚くほど無責任にできています。
働き過ぎて体や心を病んだ時、誰が責任をとりましょうか。

であれば、いい意味での「無責任感」というものを身につける必要があるのではないでしょうか。
本当に守らなければならない責任は最後まで守るし、最善の結果につながるよう努力をします。ただその一方で、必ずしも自分が責めを負う必要のないことには、無駄な責任感など持たなくても良いと思うのです。

責任は、責任を負う人が負えばいい。
それ以外の人は、善良でありさえすればいい。
責任感そのものを否定するつもりはないまでも、実体の伴わない「感」に苦しめられる必要など、ないのです。

とまあ、そんなことに気づいてしまって緩く仕事をしていたら、
それを見透かされたのごとく、本当に責任者にされてしまって鬱なんですが。

ま、まあ。あかんかったら俺を責任者にしたもっと偉い人たちが責任を取るんでしょう・・・などとどこまでも無責任に生きる努力を続けるのでありました。

何かあったとしても、君のせいじゃない。
頑張りすぎが、心配です。

締め方がわからなくなってきたので、最後にイコラブっぽい雰囲気にして終わりたいと思います。知らんけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?